説教 


2019年12月29日 「老人の見た救い」     
聖書:ルカによる福音書 2章21節−38節     説教: 
八日がたって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。胎内に宿る前に天使から示された名である。
 
さて、モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると、両親はその子を主に献げるため、エルサレムへ連れて行った。それは主の律法に、「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか若い家鳩二羽を、いけにえとして献げるためであった。
 
その時、エルサレムにシメオンと言う人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 また、主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた。
この人が霊に導かれて神殿の境内に入った。そして、両親が幼子イエスを連れて来て、その子のために律法の定めに従っていけにえを献げようとしたとき、 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民の前に備えられた救いで 異邦人を照らす啓示の光/あなたの民イスラエルの栄光です。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いた。
シメオンは彼らを祝福し、母マリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」  
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年を取っていて、おとめの時に嫁いでから七年間、夫と共に暮らしたが、 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして神殿を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていた。 ちょうどその時、彼女も近づいて来て神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを語った。
  「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のためにととのえて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民の誉れです。」
 
ルカにはクリスマスにちなむ三つの詩が記されています。ザカリヤの詩(1:68-79)は朝の祈り、マリヤの詩(1:47-55)は夕べの祈り、上記のシメオンの詩(2:29-32)は夜の祈りといわれています。このシメオンの祈りを唱えながら一日を閉じ、一年を閉じ、人生を閉じられたらどんなに幸いなことでしょう。
 
一体私たちの人生は完結するのでしょうか。「どんな人も思いを残して死ぬものだが、神の存在を信じる者だけが完結しない行為の意義を評価しうる」(曽野綾子)と言っています。長く生きることは苦しみのひだを加え、悲しい経験を重ねることです。シメオンはその最後に、その目で「倒したり(間違った生活の上に救いはなくそれを正し)、立ち上がらせたりする(赦しと愛の中で生かす)キリストの救いを見たのです。
 
キリストを見るとは、幼子を抱くことです。東方の博士たちはイエス様をひれ伏して拝みました。ひれ伏して拝むことも大切です。同時にキリストをしっかり抱くことも大切です。
キリストを抱くと、不思議なことに、わたしがイエス様から抱かれていることに気付かされます。シメオンの詩はイエス様を抱いた物の詩ですが、イエス様に抱かれた者の平安と喜びの歌でもあるのです。


 

2019年12月22日 「飼い葉おけの救い主」     
聖書:ルカによる福音書 2章1節−20節     説教:   
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
 
  「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシヤである、あなたがたは、布にくるまって飼葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 
クリスマスの喜びは、幼子の誕生の喜びですが、生まれた幼児に向かっておめでとうと言う喜びではなく、飼葉おけに寝かされた幼子の誕生によって私たちに救いがもたらされことを喜び、互いに「メリー・クリスマス(クリスマスおめでとう)」と挨拶し合うのです。
 
リュウマチの痛さは患ってみないとわからないと言います。「心に傷を持たない人は人の痛みにも鈍感である」(永井 隆)と言われます。うまぶねに生まれたイエス様だからこそ私たちの痛みと悲しみをわかってくださるのです。
 
私たちは皆、それぞれ苦悩を背負って生きています。その際自分の運命を呪っても、相手を恨んでも道は拓きません。その荷を担って踏ん張って生きる以外ないのです。
しかし、人は一人ではありません。目を上げて御覧なさい。私の闘いを知ってくれる人が周りにはいます。神様はそういう隣人を与えてくださっています。また、なんと神様自らが飼葉おけに幼子をお送りくださって隣人となってくださったのです。それがクリスマスの喜びです。
 

2019年12月15日 「人を支えるかた」      
聖書:マルコによる福音書 6章30節−44節    説教:  
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
すべての人が食べて満腹した。 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。
  人々は、イエス様のおられるところにはどこへでもその後を追いかけて行きました。飼い主のいない羊ほど憐れなものはありません。羊には敵と戦い、身を守る手立ては何も持っていないのです。イエス様を慕う人々にイエス様は「飼い主のない羊」を見て、胸が痛むほど憐れみ、神の国の福音を教え、パンを与えられたのでした。

イエス様は5つのパンと2匹の魚で、男だけでも5000人もの人に給食を与えました。それはどう考えても理屈に合わないことです。他の奇跡の記事はいろいろな理由をつけて説明できるかも知れませんがこの奇跡は説明できません。それがどのようにして行なわれたのかは判りませんし、聖書はそれについては少しも語りません。
しかし、私たちはどんなに理屈に合わなくても、私たちを愛をもって受け入れ、支え、導き、私たちを養ってくださる羊飼いであるイエス様を知っています。この箇所はそれを語っています。聖書の記者はこのことを記し、初代教会の人々は感謝をもってこれを読み続けました。

パンがなければ肉体を保持できないことは当然です。しかし、パンさえあれば生きられるものでもありません。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな」とイエス様は言われます
(マタイ 6:25-34)。私たちには真実の羊飼いがいるのです。
 このイエス様が、「あなた方の手で食物をやりなさい」と言われ、本当に人を支え生かす方を、自分に与えられているものをもって証ししなさいと言われます。
 

2019年12月8日 「神の前で生きているか」     
聖書:マルコによる福音書 6章14節−29節   説教: 
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
  洗礼者ヨハネの生涯は救い主を迎える準備でした。間違った生き方の上に救いはありません。真実な生活に私たちを導くことですから、救いのための最大の準備は、罪を示し、悔い改めに導くことです。ヨハネはあなたの生き方は神の前でそれでいいのかと人々に鋭く迫り、返す刀で兄嫁ヘロデヤを寝取った領主ヘロデの不義も裁きます。そのためヨハネは、マケラスの要塞に幽閉されました。
            
ヘロデはまさか自分の誕生日にヨハネを殺害するなど思ってもみなかったに違いありません。事件は様々な要素が重なって起こります。普通ならあり得ないサロメの踊り、酒に酔い、いい気分になっての座興の言葉、それがヨハネの殺害を狙っていたヘロデヤに利用されたのです。彼はこの祝いの席で不吉なことを言うなと退けることも出来たのですが、客の前で自分の面子をつくろってしまったのです。
 
ヘロデのしたことはダビデのしたこととそっくりです。ダビデはウリヤの妻バト・シェバを自分のものとしてしまいます。預言者ナタンによってそれが糾弾されたことは同じです。しかしダビデは自分の面子を捨てて神様の赦しに身を委ね、逆にヘロデは罪に身を委ねヨハネを殺してしまいました。
 
人が救われるのは罪を犯さないからではありません。間違いや失敗のない人は一人もいません。罪を犯したあと、面子にこだわるか、神様の前にへりくだるかなのです。
 神様の前で自分の罪に気付くこと。イエス様によってその罪が赦されていることには、もっと気付きたいと思います。

 

2019年12月1日 「恵みを携える者」
 
聖書:マルコによる福音書 6章6節−13節   説教:
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
  イエス様は二人を一組にして弟子たちを伝道に遣わされました。その際何を告げるか以上に、どう生きるかを語られます。伝道は言葉でもなされますが、人は聞く以上に見ているのです。私たちの生き様が語る以上にイエス様を伝えるからです。
 
旅には杖一本を持ち、履物をはくだけで、パンも袋もお金も持たせませんでした。物が伝道するのではないのです。生ける神様の愛の支配、思い煩いとは無縁な生活をその生き方で伝えるのです。
 
その土地で、都合が悪くなったらすぐに引っ越すような無責任な生活(伝道)はしません。
 
更にまた、主の支配を受け入れなければ神様と無縁の生活を送ることになることを、行動で(足のチリを払い落とす)示します。これを無視すれば神様の恵と無縁の生活を送ることになるのですよと。私たちが委ねられ、神様の支配を語る言葉は無視されてよいはずはないのです。
 
イエス様もパウロも伝道を命じました。伝えることで私に伝えられた福音が更にはっきりするからです(Tコリント9・23)。
また、自分が救われるだけで周りの者に救いが語られないとすれば、それは聖書の信仰ではありません。自分が救われることは周りに神様の救いが及ぶためなのです。(創世記12:3)
知らされたのは伝えるためであり、涙が拭われたのはイエス様と一緒に涙を拭う者となるためなのです。