説教 


2020年3月29日 「神を神とする」       
聖書:サムエル記下 6章1節−23節     説教  
ダビデはさらに、イスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。 ダビデは、彼に従うすべての民と共にバアレ・ユダを出発し、「ケルビムの上に座す万軍の主」という名で呼ばれる神の箱をそこから運び上げた。彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せ、運び出した。アビナダブの息子ウザとアフヨがその新しい車を御していた。彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を運び出した。アフヨが箱の前を進んでいた。ダビデとイスラエルの家は皆、主の前で糸杉の楽器、琴、竪琴、タンバリン、鈴、シンバルを奏でた。
だが、一行がナコンの麦打ち場にさしかかったときである。牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。 すると主の怒りがウザに対して燃え上がり、神はウザが箱に手を伸ばしたということで、彼をその場で打たれた。彼は神の箱の傍らで死んだ。 ダビデも怒りに燃えた。主がウザに対して怒りをあらわにされたからである。その場所はペレツ・ウザと呼ばれて今日に至っている。 その日、ダビデは主を畏れ、「どうして主の箱を私のもとに迎えることができようか」と言った。 ダビデは主の箱を、このままダビデの町には移したくなかったので、ガト人オべド・エドムの家に向かわせた。 三か月の間、主の箱はガト人オべド・エドムの家にあった。主はオべド・エドムとその家族すべてを祝福した。
神の箱のゆえに、主がオべド・エドムの家族および持ち物すべてを祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。そこで、ダビデは行って、喜びのうちに、神の箱をオべド・エドムの家からダビデの町へと運び上げた。 主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは雄牛と肥えた家畜をいけにえとして献げた。 主の前でダビデは力の限り踊った。彼は亜麻布のエフォドを身に着けていた。 ダビデとイスラエルの家は皆、喜びの声を上げ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。だが、主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろし、ダビデ王が主の前に跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の内で蔑んだ。 人々は主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に置いた。ダビデは主の前に焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げた。焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げ終えると、ダビデは万軍の主の名によって民を祝福した。そして民全員、イスラエルの群衆全体に、男にも女にも、それぞれ、輪形のパン菓子一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。民は皆、それぞれ自分の家に帰って行った。
ダビデが家の者を祝福しようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエルの王はなんとご立派であったことでしょう。一人の愚か者が恥ずかし気もなく裸になるように、仕え女や家臣の前で裸になられたのですから。」 ダビデはミカルに言った。「あなたの父やその家の誰でもなく、この私を選んで、主の民イスラエルの指導者と定めてくださった主の前なのだ。その主の前で私が踊ろうというのだ。私は今にも増してもっと卑しくなろう。自分の目にさえ卑しい者となろう。だが、あなたの言う仕え女たち――彼女たちからは、誉れを受けるであろう。サウルの娘ミカルには、死ぬまで子どもがなかった。
  ダビデは、サウル王の後を継いでイスラエルの二代目の王となり、国内のペリシテ人を平定し、三方を谷に囲まれた天然の要害のエルサレムを都に定め、国を安定と繁栄へ導きました。
 
彼が次にしたことは神の箱(神様との契約の徴である律法を記した石の板が入れられた箱、その箱を中心に40年の荒野の旅を続けた神様の臨在の象徴)をエルサレムに移すことでした。それは、エルサレムを政治、経済、信仰の中心とするという政治的な意味もあったことでしょう。
しかしダビデは、自分を選んで王としてくださった神様への感謝と神の臨在を覚えたかったからに違ありません。それでダビデは神の箱を移す時には、先頭に立って3万人の軍を動かし、民にパンと果物を配り、楽器を取り、我を忘れて神の箱の前で踊ったのでした。そんな彼に妻のミカルは言いました「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」(サムエル記下6:20) 神様の前でダビデは自分をかけて踊り、ミカルは神様との関係を客観的に見て、冷めて対応したのです。
 
彼は彼の上に起こった一連のことから次第に目が開かれてゆきました。確かに国をここまで導いたのは自分がしたことですが、それは表面的で、そう思うことは傲慢で、何と多くの支えや助けがあり神様の導きがあったことか。更に、本当は神様が人生と歴史を導かれ、自分は神様に用いられた駒に過ぎなかったと知らされていったのです。それが明らかにされると、神様を神様とすることとしてダビデは神様を自分の生活の場に迎えたのでした。


2020年3月22日 「十字架の救い」      
聖書:マルコによる福音書 8章31節−9章1節    説教  
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
  イエス様は弟子たちに「あなた方はわたしを何者だと言うか」と問われ、ぺトロが「あなたはメシァです」との告白し、イエス様は「メシァ」の中身を教えられました。この順序が大切です。イエス様について全く知らなければ信じることも告白もできませんが、何もかもがわかって告白するのではありません。信じ、告白するとその中身がわかる世界なのです
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長 律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていると弟子たちに教えはじめられた」それは弟子たちが考
えてもいなかったもので、ペトロはすぐにイエス様をいさめたのでした。 
私達の求める救いの中身を吟味する必要があります。家庭の問題が、自分が少しも汗を流さずに解決すること、そんなムシのいい救いがこの世にあるのでしょうか。問題を避けず、担うべきものを担う以外ないのです。腹をくくって病と闘う以外ないのです。問題を誤魔化したり先送りすれば、倍になって返ってきます。
 
イエス様は、苦しみを受け、十字架で殺されても神の御心の道を進まれました。その痛ましい手続きによって私たちは神様を味方として歩めます。
私たちにはこのイエス様がおられますから私たちは自分の荷を担い続けます。あなたの苦しみはわかっているよ、私も一緒に担っているよと言って下さるイエス様。「神は決して見捨てたまわじ」なのですから、イエス様の愛の中で歩みを整え、そこでしか見ることの出来ない神様の御業を拝して歩んでいくのです。イエス様の与えてくださる救いはこれであって、目先のご利益ではありません。
 

2020年3月15日 「あなたはメシアです」     
聖書:マルコによる福音書 8章27−30節    説教 
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
  イエス様の一行がフィリポ・カイサリア地方に来たとき、イエス様は弟子達にお尋ねになりました。「それであなた方はわたしを何者というのか」 ぺトロが一同を代表して答えました。「あなたは、メシァです」と。
これはイエス様への信仰告白です。神殿や礼拝の中で告白されることも幸いですが、ローマやヘロデの力の前で、ギリシャのパン神殿を前にして告白されるのは幸いです。信仰は信仰、生活は生活と、信仰と生活が分離されてはならないのです。
 
この問いは、私たちがいつもイエス様から問われていることです。その際、竹森満佐一先生は、誰からこれが問われているかをはっきりさせることが大切だと指摘されます。誰に答えるかで、どう答えるかの中身がはっきりするからです。
この問いは、あなたがどれほど私のことを分っているかといった口頭試問のようなものではありません。愛する者が、私はあなたを愛しているが、「あなたは私を愛するか」(ヨハネ 21:15)と問われているのと同じです。当然愛していますと答えてほしいのです。 あなたはメシァです。あたなは私といつも一緒にいて下さいます。あなたによって私は神様の祝福に入れられていることを信じます。私たちはこう答えているでしょうか。 
        
圧倒する富と力の前で、家族や職場の問題の渦中で、病気や悲しみの中で、自分の得意の絶頂の時、イエス様を何者と告白するのでしょうか。イエス様をメシァと告白するなら、その告白に押し出されて勇気と感謝をもって歩みます。
 

2020年3月8日 「次第に目が開かれる」     
 聖書:マルコによる福音書 8章22−26節   説教: 
一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
  聖書の記事は鎖のように前後がつながっています。パンの残りが入った籠を忘れたことを気に病む弟子たちに、生命を真に支える自分が一緒にいることを悟らせ、そのあと盲人が次第に目が開かれていく様子。そしてペトロが皆を代表して「あなたはメシヤ」と告白します。
 
聖書は奇跡の事実だけを記しますが、今日の箇所はその途中の経過を記す珍しい箇所です。これは私たちがイエス様に目が開かれていくことの象徴です。
 
 「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾を付け、両手をその人の上に置いて『何か見えるか』とお尋ねになった。7章の耳が聞こえず舌の回らない人の癒しと同じで、遠くから見るとイエス様とその人が一つとなったように見えたでしょう。すると盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが歩いているのが分かります。』『なんでもはっきり見えます』
 
歴史と人生に愛をもって支配しておられる神様に目が開かれる、これが信仰です。
 私たちの人生は、初めから全てが分かっているのではなく、次第に目が開かれてゆきます。
 まして自分で勝ち取る救いでなく、ありのままの私を受け入れてくださる神様の愛の救いは、時と共にはっきりさせられるのです。生涯の様々な失敗や病気、苦しみと束の間の喜びの中で、時と共に、イエス様との交わりの中で、一つ一つ明らかにされていきます。
 私たちは時を加え、年を刻みます。時を加えることは神様の恵みを加えてゆくこと、年を刻むことはその恵みに目が開かれてゆくことです。
 

2020年3月1日 「まだ悟らないのか」
 
聖書:マルコによる福音書 8章14−21節   説教:
弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。
その時、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と戒められた。
そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。 イエスはそれに気付いて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「十二です」と言った。 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
  舟の中でイエス様は「ファリサイ派の人々とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。あわただしい出発だったこともあって、弟子達はパンを忘れてきたことを注意されたとうろたえます。イエス様の真意はそうでありません。その誤解を解くため「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分らないのか」と大切なことを悟らせようとされます。
私たちは自分のちょっとした手違いや不注意にうろたえ、神様を見失います。神様のいることは分っていますし、これまでの恵も知っています。しかし失敗や過ちのため神様を見失います。これまで神様の恵みが一度もなかったかのように、そしてこれからも決して無いかのように取り乱します。
 
私たちの人生に責任を持ってくださるイエス様が同じ舟(人生)に乗って下さっているのです。それを悟っているか、それに目が開かれているかとイエス様は言われます。
 
この知らされた恵みを変質させるのがファリサイ派とヘロデのパン種です。
ファリサイ派の人々は、イエス様が尋常な方ではないことはわかっていましたが、それを神様からの力とはせず、悪霊の頭によることとしました。自分たちが信仰に生きていると自負していましたので、イエス様に素直に聞くことは出来なかったのです。
ヘロデはバプテスマのヨハネを自分の面子のために殺害します。 ファリサイ派の人々もヘロデも、深いところで自分中心です。この二つが恵みを見えなくさせ、信仰を変質させます。
隠れたところで、隠れたことを見ておられる神様の前に、隠れた祭壇を造るのです。