説教 


2020年4月26日 「望みを抱いて喜ぶ」     
  聖書:ローマの信徒への手紙 12章12節   説教: 
 望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。(口語訳)

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
                                 (新共同訳)

希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈り (聖書協会共同訳)
  聖書の世界では(現代でも本質では変わりませんが)、人々を脅かすものは、戦争、飢饉、疫病でした。私たちは、自分の力を越えるこれらの脅威にいつもさらされているのです。今日本は、そして先進国もそうでない国も、この疫病(新型コロナウイルス)の脅威にさらされています。この時、私たちは聖書のお言葉に励ましをいただきます。
 
この黒雲を吹き払い、生きる勇気を与えるのは「望み」です。私たちには生きていて様々な苦しみにあいます。やる気をむしり取り、生きることを諦めさせること。そんな私たちを立たせるのは「望み」です。生きられないのは「望み」がないからなのです。つまり、苦難を耐えさせるのは「望み」なのです。
しかし、「苦難」の中で「望み」に生きられるのはどこからくるのでしょうか。それは「祈り」です。苦しみの中で諦めそうになる時、「望み」を持ち続けられるのは「愛の神様は決して私たちを見捨てない」という神様への信頼と祈りがあるからです。
「望み」は苦難を耐えさせ、祈りで支えられ、祈りがあるので苦難を耐えさせ、「望み」へと導かれます。
 
一体私たちの真の敵はだれでしょう。私たちが事柄に出合う時、問題の中で、敵の正体を見抜く必要があります。
今の私たちの敵は「新型コロナウイルス」なのです。それと一つになって戦うのです。そしてそういう動きも出てきました。
それなのに、一部の人や国は、自分や自国の覇権に走る。貪欲に突き動かされて「新型コロナウイルス」さえ利用しようとする。こんな私たちを、「神よ。憐れんでくさい」といのります。私たちは決してあきらめません望みを抱いているからです

 

2020年4月19日 「万事が益となる」    
 聖書:ローマの信徒への手紙 8章28節   説教:  
 神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。
  この言葉で思い出しますのは「人間万事塞翁が馬」、「苦は楽の種、楽は苦の種」と言ったことわざです。
目先の幸・不幸に一喜一憂するのでなく、長い人生を見据えて励めということでしょう。これらのことわざは人生の知恵です。上記のお言葉もそれと同じ響きがあります。
 
このお言葉を、創世記[37章〜50章]に記されているヨセフの人生は見事に語っています。父ヤコブの偏愛から鼻持ちならなかった少年ヨセフは、兄たちの怒りを買ってエジプトに奴隷として売られ、人生の辛苦をなめ、ついにエジプトの宰相にまで上り詰めました。しかし聖書では、自分の人生の幸い・成功が仕上げではありません。
 
「しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。…神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、この地で生きあなたがたを生き長らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」 (創世記45章4−8節)

「万事が共に働いて益となる」とは、自分にとって益となるだけでなく、皆で一緒に生きるという広がりに導かれることなのです。
 

2020年4月12日 「十字架と復活」     
聖書:ローマの信徒への手紙 4章25節    説教: 
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。    イエス様のあの痛ましい十字架によって私たちの罪は赦され、それを神様は良しとされてイエス様は甦らされました(イースター)
つまり、イエス様の十字架と甦りによって私たちは罪と死からの解放され、神様に結び付けられましたので、不安はあってもしっかり地に足をつけて歩むのです。
 

2020年4月5日 「無理に負わされた十字架」
 
聖書:マルコによる福音書 15章16節−32節   説教:
兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
 
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。†
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

  イエス様は、最後の晩餐、ゲッセマネの園で祈りと神殿の下役たちによる捕縛、大祭司の中庭での宗教裁判、夜が明けてすぐのローマの総督ピラトによる裁判と兵士による侮辱の後、ご自身が付けられる十字架を背負ってビアドロロサ(悲しみの道)を進まれ、何度も倒れ刑場への行進は進みません。
過越しの祭りを守るためエルサレムに来たアレキサンドロとルフォスの父キレネ人シモンは、ローマ兵から、こともあろうにそのイエス様の十字架を背負わされたのでした。何という不運でしょう。
 
使徒言行録13章1節に出てくる教会役員の「ニゲル(色の黒い人)と呼ばれるシメオン」とは彼のことだと言われ、ロマ書16章13節の「若者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」とパウロに言わしめたのは、彼の家族でした。彼がイエス様の十字架を背負って20年、30年経ってのことでした。
 
苦しみの原因は二つあります。自分の蒔いたものを刈り取る苦しみと、突然の事故のように、自分には原因がなく巻き添えのようなそれです。キレネ人シモンの苦しみは、事故のように、外から強いられたものでした。その際、運命を怨んでも、ローマ兵を呪っても事態は解決しません。
 
苦しみは、それが自分の蒔いたものを刈り取ったものであっても、巻き添えのようなものであったとしても深いところではイエス様の苦しみと通じています。イエス様がそれを担ってくださっているからです。イエス様と一緒にその苦しみを担うとき、それは恵みのきっかけとなり、時の経過の中で輝くばかりのものとなります。キレネ人シモンはそのことを証明しました。