説教 


2020年5月31日 「信仰による従順」      
ローマの信徒への手紙 14章1−3節
ローマの信徒への手紙 1章5節
  説教:  
「キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。 」  
                  (ローマの信徒への手紙15章18節)

「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」                    (ローマの信徒への手紙1章5節)
  
  「キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。 」  
                  (ローマの信徒への手紙15章18節)
「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」                   (ローマの信徒への手紙1章5節)
 
この二つの聖句は、初代教会切っての伝道者パウロが、その伝道旅行の途中コリントからローマ教会へあてた手紙の終わりと初めの言葉です。伝道者とした生きる目的を記しています。それは、神様を知らない人が「信仰による従順」に生きる」ための伝道なのです。それが伝道です。
 
<パウロの伝道 >
「言うのも恥ずかしいことですが、…愚か者になったつもりでわたしもあえて誇ろう。 彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」 コリントの信徒への手紙二 11章22− 30節
同じ伝道者としてこれを読むと胸が熱くなります。
 
<キリストを知るまでの姿>
「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。これがキリストを知るまでの私たちの姿です。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」            エフェソの信徒への手紙 2章1− 5節
 
キリストを知るまでは、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩み、それを間違いとも恥ずかしいともおもわず、肉や心の欲するままに行動していました。
しかしキリストを知り、キリストに知られていたことを知って本来の自分に立ち返り、愛と赦しに生きる者とされました。パウロはこれを「信仰の従順に生きる」と言い、それを伝えたのです。 
 
2020年5月24日 「知識でなく愛に生きる」     
ローマの信徒への手紙 14章1−3節     説教: 
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。
  イエス様の教えがユダヤ人から一気にローマ帝国内に伝道されると、肉を食べることが教会の中で大問題になりました。 

同じ内容をTコリントの信徒への手紙8章4-13節で分かりやすく取り扱いっています。
「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。」
 
<肉を食べるということ >
当時肉を食べることは食生活や衛生上の問題ではなく信仰の問題だったのです。2000年前、人は汚れと病気の原因を漠然と考えていました。食事の前に手を洗い、食器を清める。それは、汚れが自分に入って病気にならないためであって、肉も一度神に捧げられて汚れを取り清めていただく必要があったのです。
 
<知識に生きるか愛に生きるか >
@ 異教の神殿に捧げられたものを食べることは偶像礼拝につながると考えて決して肉を食べず、肉を食べる人を「信仰に節操のない人」と批判するグループがありました。
A 肉を食べる人は、神様は天地の造り主の唯一の神で、異教の神は神のようであっても神ではない。それで異教の神殿に捧げられた肉でも平気で食べる。そして肉を食べない人たちを知識がない、信仰がわかっていない、弱い人と批判するグループもありしました。
 
パウロは言います。「偶像に供えられた肉について言えば、[我々は皆、知識(神様は唯一の神)を持っている]ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」 Tコリントの信徒への手紙8章1-3節
 
肉を食べる人は平気で肉を食べますし、食べないでもいられます。肉をたべられない人は、肉は食べられないのです。この問題で隣人と一緒に生きるカギは、知識の問題ではなく、隣人への愛の問題です。
私たちは知識に生きるのではなく、愛に生きるのです。
 

2020年5月17日 「義務でなく愛に生きる」     
ローマの信徒への手紙 13章8節    説教: 
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。     [互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。] 
                               
<ロマ書の構造> 神様の与えてくださった救い1−8章、神の民ユダヤ人問題9−11章、救われた者の生活12−15章(12章・教会での生活-中心は謙遜、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く、13章・この世での生活―敬うべきものを敬い、税を納める、14章(当時)教会での大問題-肉を食べていいかどうか、15章パウロの予定)
 
<愛以外に借りがあってはならない>
税[貢]を納めること。道路が整備され、国から盗賊がいなくなるという利益を受けるだけでなくそれに見合う義務も果たします。税を納め、神様が立てた者として敬うべき者を敬います。
※13章は通常の時の国への関わり方を語っていますが、国が悪魔のようになることもあり、ヨハネ黙示録13章も併せて読む必要があります。
 
<愛は返しきれない> 
@ 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。 税や尊敬を払わないことは「借り」です。負い目は人から自由を奪い、不自由にします。
A しかし返しきれないものがあります。それは愛です。
 ・ある裁判で離婚調停を起こされた夫は「あれほどあなたを愛したのにそれが分からないのか」と言った後、二人は分かれました。
 ・お葬式の後、姑を看取ったお嫁さんは、あの時もっとしてあげたら良かったといって泣きました。嫁として、よくぞやったと思いますが、愛をもってお世話すると、嫁はまだ足りないと思うのです。
つまり、愛は返しきれないのです。返しきったと思うのは義務で生きているからです。

神様の愛と赦しを味わった私たちの姿勢の基本は、愛に生きることです(ヨハネ13:34-35) 
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あな   たがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 
私たちは義務に生きるのではなく、愛に生きるのです。

 

2020年5月10日 「主をかいま見せる生活」     
聖書:詩編 67篇8節   説教: 
神がわたしたちを祝福してくださいますように。
地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように
  3月29日「2020年度教会予算総会」で2020年度の教会標語を定めました。この標語について皆様と一緒に確認したいと思っておりましたが機会がありませんでした。ちょうどよい機会ですので標語の願いや意図を確認します。
 
2016年、創立80周年を記念して「この街から愛されて80年、この街の平安を祈って80年、これからも祈り続けます」の標語を大宮前教会の基本と定めました。
2020年度もこの流れに中でその歩みを受け継ぎたいと思い、「神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように」詩編67篇8節から、標語を「主をかいま見せる生活」と定めました。
 
この街の平安を祈り続けるためには、まず私が神様の祝福の中に生き、ほのかに主の存在を証します。
 
今の社会は、上に立つ者がその責任の自覚も誇りもなく、力を誇示し、平気で偽りを流し、自分・自国の利益や立場だけを追求しています。上に立つ者は姿勢はそのまま社会の姿勢となって、今は殺伐とした社会になってしまいました。
 
私たち夫婦は、毎朝、朝食の時家拝の時をもっています。今はウイリアム・バークレーの「初めての祈り」を読み祈っています。私たちは社会の雰囲気に流されて、いつの間にかイエス様のお姿を見失い、イエス様から託された証しの姿勢を見失ってしまいます。この祈りは私たちが忘れていたものを気付かせてくれました。
 
「私たちの父なる神様
あなたは、私たちがこの暗い世界の中で光となるように命じています
どうか今日一日、私たちの会うすべての人々に対して良い助けとなり、模範となることが出来るようにさせてください。
どうか悲しんでいる人々には慰めをもたらし、試みを受けている人々には力を与えることが出来るようにさせてください。
恐れを抱いている人々には勇気を与え、なすべきことがわからない人々には導きを与えることが出来るようにさせてください。
勇気を失っている人々には元気を与え、意気消沈している人々には、激励を与えることが出来るようにさせてください。
そして今日、私たちが人々の間で生活する時、人々が私たちの内に主イエスをかいま見ることが出来るように、そして私たちが主のものであり、主に仕えようとしていることを人々が知ることが出来るようにさせてください。
あなたの愛によって、このことをお願いします。 アーメン」
 
この祈りに導かれて神様の恵みに生きます。それとともに、その歩みでほのかに神様を証し、家族に、この街に神様の平安と祝福を祈り続けたいと願います。

 

2020年5月3日 「迫害する者のため祈れ」
 
聖書:ローマの信徒への手紙 14章14節   説教:
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。

  「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」 
「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」12:21
 
これで思い出すのはマタイ福音書5:43−44のイエス様のお言葉です。「あなたがたも聞いているとおり『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
旧約聖書でいわれている隣人はイスラエルの同朋のことで、敵とはイスラエルの敵のことです 。イエス様は隣人と敵の垣根を取り払い、愛をすべての人へと広げました。イエス様の愛に目が開かれたパウロは、イエス様の画期的な教えを自分の言葉で言い換えたに違いありません。
 
「ハルマゲドン」(黙示録16:16)という言葉があります。メギドの丘(ハル)は古戦場で、黙示録の言葉は神様と悪の最後の戦いのために諸国の王たちがそこに集められるということです。
エジプトからは地中海に沿って北上し、ヨッパから内陸に入りメギドを通ってメソポタミヤに向かいます。チグリス・ユーフラテス河の北のバビロンやアッシリヤからはメギドを通ってエジプトに向かいます。北と南の交通路で、超大国に播弄されたイスラエルは「目には目、歯には歯」「隣人を愛し、敵を憎め」を堅く守って国を造り続けました。そんな中でのイエス様の言葉は考えられないほど画期的なものだったのです。
 
自分に悪を行う者を呪い、恨みを返す。一時は胸がすっとするかもしれませんがそれだけなのです。目には目の世界は報復の世界であり、悪の連鎖の世界です。人を本当に生かすのは赦しと愛なのです。
赦しや愛は人のためではありません。実は自分のためなのです。人を赦せず恨み・呪い続ける。恨むだけの人生は何と不毛な人生でしょう。赦し愛することで、こだわっていた恨みや呪いから解放されるのです。
ですから「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。