説教 


2020年6月21日 「方向を確認するとき」      
聖書: マルコによる福音書 9章2−13節   説教:  
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
 
  イエス様のご生涯には大きな3つの祈りがありました。公生涯の初め(荒野で誘惑を受けてどうすることが神様の救いの業かを求める)と、公生涯の終わり(ゲッセマネでの自分のしようとしていることの最後の確認)と、公生涯の中間点、山上の変貌の祈りです。
 
イエス様は山に登られ、白い栄光の姿になられ、そこに神様のみ業があらわれたのです。
私たちは一体どこで、神様を神様として、その業を見ることができるのでしょうか。逆に言えば、どこで神も仏もあるものかと思うのでしょうか。悪が罰せられず、理不尽な苦しみに涙するときです。つまり神様が私たちの目に明らかになるのは、悪が罰せられて神の義が確立し、わたしの涙の意味がわかるときなのです。
しかし悪を行なう者を罰することで神様は義を現されますが、悪を行う者に代わって「懲らしめを受け、とがある者のために執り成し」(イザヤ53章) をすること、つまり皆に代わって十字架にかかって罪の赦しを遂げ、その愛をもって涙や悲しみを共に担うことで、ご自身の義を現されたのです。
エルサレムで遂げられる最後の事(十字架)を語る山上が栄光に輝かないはずがないのです。
 
イエス様はこれから進む道を確認され、弟子達はイエス様の本当の正体を知らされました。十字架の栄光の主の正体です。
私たちは礼拝でこの主をはっきりさせます。闇が人生を覆っていると思えるとき、死を前に、この主をはっきりできることは何と幸いなことでしょう。
 

2020年6月14日 「キリストに従う喜び」     
聖書: マルコによる福音書 8章31節−9章1節B   説教: 
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」
 
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。
人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう。」
 
また、イエスは言われた。「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
 
  イエス様はペトロの「あなたこそメシアです」との告白を受けたあと、そのメシアがどのようなメシアかを語り、メシアと告白した者の生き方をお教えになりました。
 
「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」「 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
 この二つは同じ内容です。自分を捨ててキリストに従うことは、自分の命を救うことだからです。捨てるというのは、出家したり世捨て人になることではありません。また、ただ捨てるのではなくキリストのために捨てることです。換言すればキリストの中にこの身を置くことです (マタイ6:25-34) 。それが自分を救うことなのです。
 
弟子はイエス様の後に従う者です。後姿は意識しないその人の生きざまを語ります。イエス様が私たちのために十字架に向かうお姿を見ながら後に従います。イエス様の後について行ってはっきりすることは、わたしの命の尊さです。イエス様の救いの業は、私のためでした。
 
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
イエス様は私の尊さを引き出してくださいました。神様を知り、信仰をもつということは自分の尊さに目が開かれることなのです。ですから自分を粗末に扱ってはならないのです。キリストの愛の支配に身を委ね、その愛に応えてゆくのです。
 

2020年6月7日 「キリストに従う者」
 
聖書: マルコによる福音書 8章31節−9章1節A   説教:
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」
 
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。
人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう。」
 
また、イエスは言われた。「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

  「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 
キリストに従うことは、自分を捨てなければできないことです。野球をする者が自分の考えを捨て監督の指示にしたがうのと同じです。自我を捨て、自分に与えられた十字架を負って従います(重荷とは違います。重荷も苦しみですがそれは人が生きている限り出合う苦しみです。しかし十字架はイエス様に従おうとするときに出合う苦しみです)。
 
信仰に大小はありません。しかし幼い信仰と成熟した信仰の違いはあります。求道者と信仰者の信仰は違って当然です。信仰は量の違いではなく質の違いです。
自分が愛され、恵まれることしか眼中になく、愛し、配慮する側に立てない信仰は何と幼い信仰でしょう。子供と同じです。
苦しい時にイエス様に委ね、平安を与えられることも信仰の喜びですが、イエス様のためにいささかでも苦しむことにも信仰の喜びがあります。魂の触れ合う深い喜びは、一方的ではなく、相互に通い合う愛です。イエス様から愛されることだけを求め、イエス様のために苦しむ喜びを知らない人は、信仰の喜びを半分しか知りません。
 
なぜ信仰に喜びがないのでしょうか。なぜ信仰に成長がなく、マンネリになるのでしょうか。イエス様から受けることばかりを願って、イエス様の苦しみにあずかろうとしないからなのです。