説教 


2020年7月26日 「罪」      
聖書:サムエル記下 11章1節−27節      説教:  
年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。 ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。 ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、 子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。
ダビデはヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。 ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」
ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。 しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。 ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」 ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」 ダビデはウリヤに言った。「今日もここにとどまるがよい。明日、お前を送り出すとしよう。」ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。ダビデはウリヤを招き、食事を共にして酔わせたが、夕暮れになるとウリヤは退出し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかった。
翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。 町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。
ヨアブはダビデにこの戦いの一部始終について報告を送り、 使者に命じた。「戦いの一部始終を王に報告し終えたとき、 もし王が怒って、『なぜそんなに町に接近して戦ったのか。城壁の上から射かけてくると分かっていたはずだ。昔、エルベシェトの子アビメレクを討ち取ったのは誰だったか。あの男がテベツで死んだのは、女が城壁の上から石臼を投げつけたからではないか。なぜそんなに城壁に接近したのだ』と言われたなら、『王の僕ヘト人ウリヤも死にました』と言うがよい。」使者は出発し、ダビデのもとに到着してヨアブの伝言をすべて伝えた。
使者はダビデに言った。「敵は我々より優勢で、野戦を挑んで来ました。我々が城門の入り口まで押し返すと、射手が城壁の上から僕らに矢を射かけ、王の家臣からも死んだ者が出、王の僕ヘト人ウリヤも死にました。」 ダビデは使者に言った。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。奮戦して町を滅ぼせ。』そう言って彼を励ませ。」
ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。 喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。
  ダビデは、内政も外交もうまくいき、生涯で一番安定した時を送っていました。慢心、油断があったのでしょうか、そのスキを罪が狙い撃ちしました。
忠実な部下ヘト人ウリヤの出征中、その妻バト・シェバを召し入れて自分のものとし、身ごもらせ、それを隠ぺいするためにウリヤを前線に立たせて敵の手で殺させたのでした。罪は更に罪を産み、最後は決定的な破局に走らせます。ダビデ王のしたことです。
 
これは実に不気味なことです。ダビデは特別に悪い人だったのでしょうか。私たちは決してこんなことはしでかさないのでしょうか。 機会をとらえて、罪がダビデの中で吹き出し、わたしたちの中にも吹き出すのです。
 
主イエスは「試みに遭わせず悪より救い出したまえ」と祈れとお教え下さいました。私たちは実に弱いのです。ですから不気味な罪を内に持つ私たちは、誘惑に打ち勝てるように強くなることではなく、自分の弱さに徹し、神様の守りと導きに身を託して生きるのです。
 
罪は罪が裁き、罰します。バト・シェバを犯し、ウリヤを殺し、ダビデの生涯に消し難い汚点を残し、ダビデの家族の乱れ、それはそのまま国の乱れにつながりました(13章)。
マタイ福音書1章の「ダビデの子イエス・キリストの系図」には、4人の婦人ヤコブの嫁タマル、遊女ラハブ、異邦人ルツ、ウリヤの妻が記されています。「私はあなたと共にいて…あなたの王座をとこしえに固く据える」というナタンの預言は確かなのです。その恵みの約束に生きるのです。
 

2020年7月19日 「何を見て行動するか」     
聖書:マルコによる福音書 9章38節−41節     説教: 
 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
 
イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
  弟子のヨハネが言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出しているの見ましたが、私達に従わないのでやめさせました。」
 ヨハネからすればイエス様に従って教えを受けたり、訓練されたのではなく、見よう見まねで悪霊を追い出しているので、教えの純粋性や秩序を考えてのことでしょう。
 
ところがイエス様は「止めさせてはいけない」と言われ、@キリストの名を使って奇跡を行ない、その後で悪口は言えない。Aキリストに逆らわない者は味方。Bキリストの弟子に水1杯でも飲ませてくれる者は必ず報いを受ける、とその理由を語られました。
イエス様を取り巻く状況は予断を許さず、切迫したものでした。イエス様は、十字架による神の救いだけを願い、そこからすべてを判断されたのでした。
 
民数記11章には、エルダトとメダドが神の霊を受けて預言している様子が記されています。モーセの激務を補うために70人が選ばれ神の霊が注がれました。二人は選ばれず、幕屋に参集もせず、自分勝手に預言しているとヨシュアは思い、モーセに訴えたのでした。
しかしモーセは言いました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしている。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と。モーセは神の民を約束の国に導くことから、すべてを判断し行動したのでした。
 
私たちは生きているうえで様々な判断を迫られます。その際何を見て決断するのでしょうか。目先のこと一つひとつで判断すと、自分の面子や都合が入ってくる来るかもしれません。今立っているところから目標を見ますが、目標や目的から今を見ることも必要なのです
人生には最後にして最大の目標があります。キリストに救われ、地上の生涯を終え、やがてキリストの前に立つ。ここから地上の歩みを判断し行動するのです。
 

2020年7月12日 「誰が一番偉いか」     
聖書:マルコによる福音書 9章30節−37節    説教: 
 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
 
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
  カファルナウムに帰る途中、弟子たちはだれが一番偉いかを議論しました。それを知ってイエス様は言われました。「一番先になりたい者はすべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。…わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者はわたしを受け入れるのである」
イエス様は十字架にむかって進まれます。十字架は、その打たれた傷によって私たちを癒(イヤ)す贖(アガナ)いの業です。仕えられるのではなく仕え 、受けるのではなく与え、自分を楽しませるのではなく人を愛し尽くされ 、イエス様はそこに神様の御心をみて歩まれたのでした。
そんな私たちにイエス様は「一番先になりたい者は、全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」と言われます。
得ることが悪いのではありませんし、上に立つことが悪ではありません。実は得たのは与えるため、上に立つのは仕えるためなのです。世をあげて自己満足を求め、そのための自己主張の時代です。その際私たちは自分も生きるけれど隣人と一緒に生きることを見落としています。
 
一緒に生きると言う場合、より添いたい人もいますが、できれば距離をおきたい人もいます。「子供」は、いたいけなくかわいい時もありますが、反抗し悪態をつくこともあります。でも一緒に生きるのです。その子供を受け入れるのです。
 
これが分り、そう生きる人が一番偉い人です。イエス様は十字架でそれをわたしたちにしてくださいました。
 

2020年7月5日 「祈りとは何か」
 
聖書:マルコによる福音書 9章14節−29節   説教:
一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
 
イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
  山の上でイエス様と3人の弟子が、エルサレムで起こる十字架の業が栄光に輝く神様の救いの業であることを確認して至福の時を過ごし、山から下りると悪霊につかれた子供をいやすことが出来ない弟子たちと、それをなじった律法学者たちとの言い合いの最中でした。
 
子どもを癒すにあたってイエス様は言われました。「信じる者にはなんでも出来る」
息子の病気で手立てを失った父親にイエス様は約束されました。これは文学的な誇大表現ではありません。神様の約束です。
 
「なんでも」と言っても、太陽が西から昇るとか、犬が人の言葉を語るとか、そんな愚にもつかず、人倫に反することを言っているのではありません。子供の病気に手立てを尽くし、考えられるあらゆる手段を試みても駄目で、山のように立ちはだかる問題を、神様は必ず道を拓いてくださるという約束です。
 
「信じる者には」とは、信念や念力といった、私の信じ方のことを言っているのではありません。私が問題を解決したり、道を開くのではありません。これが誤解の元かもしれません。
問題の解決は、そして祈りは、私の中に生けるイエス様をお迎えすることです。その課題の真ん中にイエス様に立っていだだくことです。祈りとは自分を神様に明け渡すことです。
 
「乱れしそのまま、病みしそのまま、汚れしそのまま、今これを神に捧げよ。而して、神をしてその大能をもって、汝に代わりて整理、治療、救済の任に当たらしめよ」(内村鑑三)