説教 


2020年8月23日 「罪赦された者の幸い     
聖書:サムエル記下 12章1節−15A節   説教:   
主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンはダビデのところに来て言った。/「ある町に二人の男がいた。/一人は富み、一人は貧しかった。 富める男は非常に多くの羊や牛を持っていた。 貧しい男は自分で買い求めた/一匹の雌の小羊のほかは/何一つ持っていなかった。/彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで、彼の息子たちと共に成長し/彼の乏しいパンを一緒に食べ、彼の杯から飲み/彼の懐で眠り/彼にとってはさながら娘のようであった。
あるとき、富める男のところに/一人の旅人がやって来た。/富める男は/自分のところに来た旅人をもてなすのに/自分の羊か牛を取って料理するのを惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分のところに来たその人のために振る舞った。」
ダビデはその男のことで怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そのようなことをした男は死ななければならない。 物惜しみをし、そんなことをした報いとして、小羊を四倍にして償わなければならない。」
 
ナタンはダビデに言った。「それはあなたです。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注ぎ、イスラエルの王としたのは私である。私はあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主人の家をあなたに与え、主人の妻たちをあなたの懐に与え、イスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし不足ならば、私はいくらでもあなたに与えたであろう。なぜ、主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはあのヘト人ウリヤを剣にかけ、彼の妻を奪って自分の妻とし、アンモン人の剣で彼を殺した。 それゆえ、剣はあなたの家からとこしえに離れることはない。あなたが私を侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからである。』 主はこう言われる。『見よ、私はあなたの家の中から、あなたに対して災いを起こす。あなたの目の前で、あなたの妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼は白日の下で、あなたの妻たちと寝るだろう。 あなたはひそかにこれを行ったが、私はイスラエルのすべての人々の前で、白日の下にこれを行う。』」
 
ダビデはナタンに言った。「私は主に罪を犯しました。」ナタンはダビデに言った。「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない。
しかし、あなたがこの行いによって大いに主を侮ったために、生まれて来るあなたの息子は必ず死ぬであろう。」
  ダビデは偉大な王でした。国をまとめ、発展させ、敵からも慕われるほどの王ですが、人生の汚点の中でもその偉大さを発揮しました。
 
ダビデは忠実な部下ウリヤの妻バトシェバを夫の従軍中に奪い取り、敵の手でウリヤを殺害してしまい、何食わぬ顔で口をぬぐっていたのです。そんな彼のもとに預言者ナタンが遣わされ、その罪が指摘されると、ダビデは王座から滑り降り「わたしは主に罪をおかしました」と神様の赦しを乞うたのでした。初代の王サウルは違います。アマレクとの戦いのとき、全てを皆殺しにせよとの戒めに背き、価値のない物は殺し価値のある物は残したのでした。サムエルからそれを指摘されると、主に捧げるために生かしておいたと抗弁し自分の非を認めず、逆に力でサムエルを脅したのでした。今から3千年前の絶対の力らをもつダビデですが、自分の罪を認めて赦しを乞い、最大の汚点の中で最大の偉大さを表したのでした。
 
罪の赦しを乞うダビデに、「その主があなたの罪を取り除かれる」と実にあっさり罪の赦しが宣言されました。罪の結果は刈り取らなければなりませんが。
 
人は他人の非はよくわかりますが、自分の非はなかなか認めません。他人の知らない事情や自分なりの理屈もあります。非を認めることは、自分の立ち位置を覆すことです。
 
しかし人にそんな勇気はあるでしょうか。口を拭う私たちに預言者は「あなたがその人です」と言って迫ります。
人は弱く誰でもやっていることだからと開き直る私たちに、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と言ってイエス様は私たちに近づいてくださっています
私たちは自分の罪を知るだけでなく、赦しも聞きます。ここから歩みを整えるのです。赦されて神様を味方として生きるのです。

 

2020年8月23日  富んでいる人の問題    
聖書:マルコによる福音書 10章17節−22節    説教:  
イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 
  金持ちの男の話は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されています。それらを参考にしますと彼は年若く、金持で(親の遺産を譲り受けたのかも知れません)、しかもユダヤの最高法院の議員でもあり、イエス様に教えを聞く謙遜さも持ち合わせていました。すぐ前に出てくる何も持たない「子供」とは正反対です。
富が悪いのではなく、社会的な地位を得ることが悪いのではありません。お金で身を固め、社会的地位でガードを固め、それらをしっかり持っているので彼を本当に支える方が見えていないのです。
 
主イエスは彼を見つめ慈しんで言われます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それからわたしに従いなさい」と。捨てることに主眼があるのではなく、誰に頼ったらよいかを教えられたのです。イエス様本意がわからず、彼は悲しみながら去りました。
 
富は、そして才能も、神様から管理を委ねられている賜物です。富が捨てられないことが問題ではなく、彼を本当に支えている方に目が開かれていないことが問題なのです。
 「知恵あるものは知恵を誇るな。…富あるものはその富を誇るな。誇る者はこのことを誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主」(エレミヤ 9:22ー23) 
この方に目が開かれていますか。
 

2020年8月16日 「子供のように神の国を受け入れる」     
聖書:マルコによる福音書 10章13節−16節   説教: 
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
 
  「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに入ることは出来ない」
 
確かに子供は素直です。しかし、それは無知から来ています。疑うことを知りません。何も知らないからです。力をもっていないので信頼深くなるのです。子供の弱さは、自分の無力から来ています。もし「子供のように」を単純にそのように解釈するなら、いくらかでも理性で判断が出来、自分の思いで行動できる私たちには無理なことになります。
     
「神よ、変えることの出来ないものにはそれを受け入れることの出来る心の落ち着きを、変えることの出来るものについてはそれを変えることの勇気を、そして、変えることの出来るものと出来ないものを見分ける知恵を与えてください」という祈りをニーバーは教えます。「子供のように」とは、自分には変えられないもの、限界があることを知ることなのです。
内村鑑三は言います「人の強さは蛮勇ではない。信ずべきものを信じ、信じてはならないものを信じない。畏れるべきものを畏れ、恐れてはならないものを恐れない。頼るべきものを頼って、頼ってはならないものを頼らない」これが自分の中に確立することです。 
 
信仰は私を強くすることではありません。どんなことが起こっても平常心でいられるように心を鍛えたり、私を強めることでは決してありません。反対です。私の無力を知って神の主権に服し、信頼すること。私の問題も、本当に神様の支配のなかにあることに目が開かれることなのです。 
 

2020年8月9日 「共に生きる」     
聖書:マルコによる福音書 10章1節−12節   説教: 
 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
  「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」               
離婚の是非を問うファリサイ派の人へのお言葉です。当時の離婚についての二つの考え方の疑問を問うたともいえますが、ペレヤの王様ヘロデ・アンティパスが兄の妻ヘロディヤを自分のものとしてしまった事件がありました。それを指弾したバプテスマのヨハネがそのために殺害されたようにファリサイ派の人々はヘロデの手でイエス様を殺害しようと考えたと思います。
 
イエス様は離婚をどう考えるかではなく結婚とは何かをお教えくださいました。モーセの律法(申命記24:1-4)「離縁状を書いて離縁する」は男の身勝手を牽制するための止むを得ない定めで、神様のお心ではないと言われます。
 
自分中心で神なき生活、我がままでかたくな、こんな私をイエス様は十字架で受け入れて下さいました。私が良くなって神の子とされたのではありません。愛のない者を愛し、汚れたままの自分を受け入れて下さった愛です。私はこのイエス様の愛に生き、イエス様が私のうちに生きる、これが信仰生活です。                                     
この愛をもって伴侶の前に立ちます。私だけがイエス様から愛され、伴侶が愛されないことがあるでしょうか。イエス様の赦しに生きる私が、愛と赦しをもって相手の愛と赦しを引き出すのです。悪をもって悪を引き出すのではありません。ここに生きる喜びがあります。ここで初めて二人は霊肉共に一体となります。
実に創造の秩序は恩寵の秩序をもって初めて全うできるのです。 

 

2020年8月2日 「神の支配に生きる」
 
聖書:マルコによる福音書 9章42節−50節   説教:
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。†もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
人は皆、火で塩味を付けられる。 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
  イエス様が山上の変貌の後、エルサレムで起こることを語られました。それを誤解した弟子たちに三つのことを語られました。弟子のありかたとして上に立つことより仕える者となること。弟子以外の者にはどうか関わったらよいか。弟子自身がどう生きたらよいかです。
 
弟子自身がどう生きたらよいかのこの箇所は、一つひとつが独立しています。まず小さい者をつまずかせるなと言い、自分をつまずかせないため自分の中にある悪を切り捨てる、そうでないと地獄に投げ込まれ、地獄ではウジが尽きず火が消えない。(レビ記2:13には、捧げられた穀物に塩をかけ火で焼いて神にささげる火の契約があり、それを受け)人は火で塩つけられる必要があり、塩は良い物、塩を内に持ち互いの平和にすごしなさいと、教えられます。
これは私たちもしたように「ウサギは白い、白いは雪、雪は冷たい、冷たいは氷…」と言った言葉遊びのようにしてイエス様の教えを記したものです。
 
「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば(現代の精製塩ではなく岩塩のため)、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
 
イエス様は、「あなたがたは地の塩である」と言ってくださいました。イエス様と関係が出来たものは塩を内に持つ者とされたのです。人にとってはなくてならず、腐らせず、清める塩。
「いつも、塩で味付けされた快い言葉」で語るのです(コロサイ4:6)。
信仰者は本当に生きること、自分の大切さを知っている人です。自分が愛され、イエス様によってかけがえのない者とされていることを知っている人です。
自分の大切さを知り、隣人の上にも神様の御業を見て、一緒に生きるのです。