説教 


2020年9月27日 「赦しに生きる」     
聖書:サムエル記下 12章15B節−23節     説教:   
主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
 
七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」
ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」
ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。
家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」
彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。 だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」
  ダビデは忠実な部下ウリヤの妻バトシェバを自分のものとしてしまいました。バトシェバはみごもり、それを隠すためにダビデは手を打ちますが、それが叶わないとわかるとウリヤを敵の手で殺害しました。
神様は預言者ナタンを遣わしてそれを裁き、ダビデは一切抗弁せずにその罪を認め、ナタンは神様の赦しを伝えました。
 
罪は赦されても、罪の結果は残ります。ダビデはバトシェバの子の病気の癒しのために断食し、地面に横たわって夜を過ごして祈りました。子は7日目に死にました。子の死んだことを家臣の動きで知ったダビデは断食をやめ、神様を礼拝しました。
 
ダビデの祈りは、神様の赦しを子供の癒しの中で確認したかったからでしょう。しかしそれは自分の出した条件です。自分の気に入る結果が出たら神を信じ、気に入らなければ神を信じない、これは信仰ではありません。それは我がままです。
子が癒されるかどうかは神様のなさることです。子が亡くなってこれがはっきりさせられました。ダビデは断食を止め、神様を礼拝し神様の赦しと愛に立ったのです。
 
私たちにも、神様の赦しと愛が見えなくなリ、それを疑い、確認したくなる時があります。自分の蒔いたものを刈り取って苦しむ時でしょうか、生活の不安にかられる時でしょうか、しかし信仰は、そこで自分の条件を捨てて、神様の赦しと愛とに立ち続けるのです。

 
 
2020年9月20日 「主よ、憐れんでください」     
聖書:マルコによる福音書 10章46節−52節    説教:  
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。
ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
 
  道端で物乞いをしていた盲人バルティマイは、イエス様の一行が通られると必死で助けを求めました。その求めの激しさは、周りの者がへきえきするほどのものでした。彼は自分のみじめさに座り込んでいなかったのです。
 
私は若い頃、「救われる」という言葉が嫌いでした。信仰は救われるといった惨めなことではなく、「信じるべきものを信じ、信じてはならないものを信じない。頼るべきものを頼り、頼ってならないものを頼らない」ことが私の中に確立することだと思っていたからです。長じて、それも間違いではないけれど、随分浅薄で、傲慢な理解であったと知らされました。矢張り救われる、憐れんでくださいという以外ないのです。
 
日航機が墜落した時、楽しそうな写真が発見されました。誰が数時間後に墜落すると考えたでしょうか。私たちは数時間先のことも見えず、自分を支えるものは何ももっていないのです。
また、人には魔の時があります。良いと分っていてもそれが行なえず、してはいけないと知っていっても行なってしまいます。世界中の人が平和を願っても銃声はなりやまず、行く先の黒雲は晴れません。「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れんで下さい)とのバルティマイの叫びは私の叫びなのです。

私たちが自分のみじめさを知ってそこに座りこまず、「ダビデの子イエスよ、憐れんで下さい」とイエス様に訴える。信仰とは、実に単純です。
 

2020年9月13日 「仕える人生」     
聖書:マルコによる福音書 10章32節−45節   説教: 
一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
 
ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
 
ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
 
  「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
この箇所はマルコによる福音書の中心で、ここにイエス様のご生涯の意味が記されています。イエス様は仕えられるためではなく仕えるため、多くの人の身代金としてご自身を捧げるためであったと言います。
 
私たちの人生の評価には二つの基準があります。
一つはいかに多くを得たかで評価される基準です。その得た富、力、博学な知識のゆえに、人から名声をかち取り、その人の人生は評価されます。私たちは太閤記やサクセスストーリーに心ひかれますが、ゆえなしとはしません。そこに人生の一つの真実があるからです。 
 もう一つはその反対で、いかに多くを与え、人に仕えたかで評価される基準です。マザーテレサはそのことでノーベル平和賞を与えられ、イエス様はそれを徹底した形でお教えくださいました。
 
信仰を持つということは価値観が変わることです。得ることに価値があると思っていたところから、仕えることにも大きな意味のあることを知ることです。
更に信仰は、イエス様によって仕えられたことを知り、そこから押し出されていくことです。

 

2020年9月6日 「私のため、福音のため」
 
聖書:マルコによる福音書 10章23節−31節   説教:
イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは重ねて言われた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」
弟子たちはますます驚いて、「それでは、誰が救われることができるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」
ペトロがイエスに、「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました」と言いだした。 イエスは言われた。「よく言っておく。私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、 今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける。
しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
  「私のためまた福音のために、家、兄弟、…畑を捨てた者はだれでも、この世で迫害も受けるが、家、兄弟、…畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」
確かにイエス様の教えが理解されるまでは迫害も受けます。
「私のため福音のため…百倍も受け、永遠の命を受ける」とは、私たちの持っているものの量の変化より、質の変化です。
 
イエス様はここで、全部を捨てて出家せよと言われたのではありません。血の繋がりは切れないのです。捨てるとは縁を切ることではなく、とらえ方を変えることです。生まれながらの肉の関係を離すのではなく、福音を通して、神様から託くされたれたものとして受け止め直すのです。これらによって私たちが持っているものに質の変化が起こります。肉親もそうですし、富もそうです。そうするとそれまで以上に豊かにもち、富の魔力からも解放されます。
 
人の深い喜びは、得ることにもありますが、与えることにもあります。イエス様によってと
らえ直して新しく家族を得ます。これは喜びですが、逆にイエス様のためにいささかでも苦しむことが出来れば、これに勝る深い喜びはありません。愛はその人のために苦しむことの中で、もっと深められます。
この神様との深い信頼関係を理解しているかどうかです。どんなに早く神様に接していても後になり、あとから接した人でも先になります。