説教 


2020年10月25日 「虹・平和の契約」     
聖書:創世記 8章18−22節  9章12−17節   説教:山本隆久牧師 
 そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。
ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」
 
 
更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」
  2011年3月11日、東日本大震災が起こり、その悲惨な大災害の前に私たちクリスチャンの信仰は激しく問われました。「天地を創造され、すべてを支配されている愛の神がいらっしゃるならば、なぜこんな悲惨なことが起こるのか?」
 
私たちは「神は愛である」と信じ告白します。神は、すべてを越えて最も大切な方です。その方が愛であるということは、私たちがどんな状況の中にあっても愛することを大切にすることです。そして、愛を大切にし、人を愛することの意味は、大災害の中でも変わることなく唯一確かなことだと学びました。
 
東日本大震災の津波による被害を目の当たりにし、単なる地震よりも水害がいかに恐ろしいかと言うことを私たちは身をもって知りました。それを通して、私たちはむしろ全世界が水没して、ノアとその家族だけが生き残るような大洪水が、どれほどの恐ろしい災害であるかを改めて思いました。
コロナウイルスの危機の中に今、全世界が苦悩しています。私たちの人生の意味が今ほど激しく問われている時ではないでしょうか?
病気にかかることをいたずらに恐れるだけでは、この災いに遭った意味がありません。この災いを通して真実な人生を見出すことが大切です。
 

2020年10月18日 「イスカリオテのユダ」      
聖書:マタイによる福音書 26章14節−25節      説教:山本隆久牧師 
そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにしたそのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
 
除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。
夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
 
  イスカリオテのユダは、キリスト教会の敵であり汚点です。
よく「全能全知なる神の御子イエスが、なぜイスカリオテのユダを使徒に選んだのか?」と、問われますが、まず弟子たちが、この出来事をどのように受け止め、取り扱ったかということに目を向けたいと思います。

 非常に特異なことは、このイスカリオテのユダの裏切りの出来事ばかりでなく、結局はペテロをはじめ弟子たちがみな逃げ去ってしまった恥をあからさまに聖書が伝えていることです。このようなことは、この世の権威と支配権を揮(ふる)う集団ではありえません。こんな恥は隠して知らぬ顔を決め込むのが普通のことです。なぜ、弟子たちは、自分たちの情けない姿を後世に伝えているのでしょうか?

 それは彼らが本当に、復活されたイエス・キリストに出会ったからです。神様の前に自分を誇ることはできないことを徹底して思い知ったからです。それは悔い改めの姿です。
自分の正しさや良さを見せるのではなく、愚かさや罪を告白することの大切さを彼らは知ったからです。私たちは、自らの罪を告白して、悔い改めてイエス様の赦しの福音を信じているでしょうか?


 

2020年10月11日 「真の礼拝」     
聖書:マルコによる福音書 11章12節−19節     説教: 
 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
 
それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
 
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
  イエス様は縄で鞭を作り、宮の庭で売り買いしている商人を追いだして宮清めをなさいました。当時の礼拝には犠牲も両替人も必要です。イエス様の怒りは、商人と神殿側の醜い結託に対してもあるでしょうがそれだけではではありません。実は神殿礼拝の否定なのです。神殿ではなく、「三日で建てられる人の手によらない宮(キリストの体なる教会)」による礼拝をうち建てるためでした。そのために神殿礼拝を否定し十字架につけられました。
 
「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』(イザヤ56:7)
 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。』」(エレミヤ7:11)
 
神殿には多くの人が集まり、犠牲をたく煙は絶え間なく昇り、献金もにぎにぎしい音をたてて捧げられていたに違いありません。そこは自分の願いを訴え、宗教心は満足させられますが、自分のなかに取り込むだけの、極言すれば「強盗の巣」です。そこには神様への臨在への畏れがありません。畏れのないところに真の礼拝はないのです。
その昔、イスラエルの民は苦しい荒野の旅を続け「わたしはあなたを目の瞳のように守る」(申命記 32:10)との励ましを、幕屋(そして後日それを模して造られた神殿)で聞き続けました。礼拝は、そこで私が正されるとともに、自分が自分を思う以上にわたしを配慮してくださっている、この主を拝するときなのです。神殿(新しい宮の教会)は、「全ての国民の祈りの家」なのです。
 

2020年10月4日 「王としての主イエス」
 
聖書:マルコによる福音書 11章1節−11節    説教: 
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


  今日の箇所からイエス様の最後の一週間が始まります。福音書はイエス様のご生涯を記したものですが、よく見ると約33年のご生涯のうち、誕生と12歳の宮詣以外に30歳になるまでの歩みは記されていません。約3年の公生涯の歩みも、最後の1週間が福音書全体の三分の一を占めています。福音書は単なるご生涯を記したものでなく、神様がイエス様によって何をして下さったのか、十字架と復活に焦点を当てて記されたものです。つまり、私が神様のために何をするかではなく、神様が私たちのために何をしてくださったかを記しているのです。
イエス様は十分な用意をして、ロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。王として、しかもロバの子に乗る王として入城されたのです。軍馬に乗って、力で敵を倒し、自分に都合の良いように相手をねじ伏せるのではありません。平和でへりくだり、柔和で人々の荷を担い、私たちの代わりに罪を引き受けて人を救う王様です。(ゼカリヤ9:9-10)
 
イエス様はそのことを言葉で語るだけでなく、行動でも示されたのでした。最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗い、パンとぶどう酒を取り上げ、「これはわたしの体」「これは契約の血」と言って十字架の意味を覚えさせ、今も私たちが守っている聖餐を定めてくださいました。
イエス様は黙々と人の罪を背負い、十字架で死んで人を救おうと思ったのではありません。自分が人々の弱さと敗れを背負ったことをどうしてもわかってほしい、心の底からそれを覚えて、いつもいつもそこに立っていてほしいと願って行動されたのです。
 
信仰を持つことは、主権の交替です。イエス様を私たちの全生活の王様としてお迎えすることです。上着を脱いでイエス様をお迎えし、イエス様の愛の主権に服することです。イエス様はそれを私たちに求め、ロバの子にまたがって王として入城されました。