説教 


2020年11月28日 「袋小路の中で」      
聖書:サムエル記下 13章23節−36節    説教  
それから二年たった。エフライムに接するバアル・ハツォルにアブサロムの羊の毛を刈る者が集まった。アブサロムは王子全員を招待し、王のもとに行って願った。「僕は羊の毛を刈る者を集めました。どうぞ王御自身、家臣を率いて、僕と共にお出かけください。」 王はアブサロムに言った。「いや、わが子よ、全員で行くこともあるまい。お前の重荷になってはいけない。」アブサロムは懇願したが、ダビデは出かけることを望まず、ただ祝福を与えた。 アブサロムは言った。「それなら、兄アムノンをわたしたちと共に行かせてください。」王は彼に、「なぜアムノンを同行させるのか」と言ったが、 アブサロムが重ねて懇願したので、アムノンと王子全員をアブサロムに同行させた。
アブサロムは自分の従者たちに命じて言った。「いいか。アムノンが酒に酔って上機嫌になったとき、わたしがアムノンを討てと命じたら、アムノンを殺せ。恐れるな。これはわたしが命令するのだ。勇気を持て。勇敢な者となれ。」
従者たちは、アブサロムの命令どおりアムノンに襲いかかった。王子は全員立ってそれぞれのらばに乗り、逃げ出した。 王子がだれも帰り着かないうちに、アブサロムが王子を一人残らず打ち殺したという知らせがダビデに届いた。 王は立ち上がると、衣を裂き、地面に身を投げ出した。家臣たちも皆、衣を裂いて傍らに立った。 ダビデの兄弟シムアの息子ヨナダブが断言した。「主君よ、若い王子たちが皆殺しになったとお考えになりませんように。殺されたのはアムノン一人です。アブサロムは、妹タマルが辱めを受けたあの日以来、これを決めていたのです。 主君、王よ、王子全員が殺害されたなどという言葉を心に留めることはありません。亡くなったのはアムノン一人です。」 アブサロムは逃亡した。見張りの若者が目を上げて眺めると、大勢の人が山腹のホロナイムの道をやって来るのが見えた。 ヨナダブは王に言った。「御覧ください。僕が申し上げたとおり、王子たちが帰って来られました。」
ヨナダブがこう言い終えたとき、王子たちが到着した。彼らは声をあげて泣き、王も家臣も皆、激しく泣いた。
 
  国が安定した後、ダビデの家に目を覆いたくなるような悲劇が起こりました。美しいタマルを異母兄のアムノンが犯し、タマルの兄アブサロムがアムノンを殺害したのです。ギリシャ悲劇のような内容です。暗く、重く、苦しい家庭の問題。私たちはどうしたらいいのでしょうか。袋小路の中で、人を恨んでも、環境を呪っても道は拓きません。
  
ダビデはその袋小路の中でそれを神様に委ねました。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。 あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」(詩22編)これはダビデが作りイエス様が十字なの上で口にされたお言葉です。人の苦しみの真ん中に十字架が立てられ神様の愛が切り込んでくるのです。
 
ですから涙の中で主に委ねます。信仰者にとって苦しみのあることが問題ではなく、苦しみを神様の手の中でとらえられないことです。
 家庭の問題は、一面、自分の蒔いたものを刈り取ることですが、それなら神様に委ねるというのは虫がよすぎるように思います。しかし人が蒔かずに刈り取る苦しみがあるでしょうか。
 しかも「委ねる」ことは、投げ出すことではなく一度神様に託して問題を整理していただいて、改めて担い直すことなのです。やってみればわかります。


2020年11月22日 「借りている人生」      
 聖書:マルコによる福音書 12章1節−12節   説教   
イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。
 
  主人は葡萄園をすっかり整え、農夫たちに貸し与えて旅にでました。私たちには主人がおり、この世や人生は、主人でいます神様から貸し与えられたものです。これが聖書の根本的な主張です(マタイ25:12-30)。人生は、生きてきましたし、これからも生きていきます。しかし生かされていることにも目が開かれる必要があります。私たちのもっているもので、与えられなかったものはあるでしょうか。
 
主人は収穫の時に、分け前を納めよといいます。主人の物を主人に返すこと、これが本当の生き方です。借りていることに目が開かれて、返していく生活、これが信仰生活です。
 
しかし人は、一度手に入れたものは返しません。返したくないのです。農夫たちは借りたものを自分たちの物とするために、ついには愛児を殺害してしまいます。
 
このたとえで一番大切なのは愛児が殺されるところです。主人は農夫たちの暴力に対して暴力で立ち向かうことも出来たのですがそうしません。愛児は人の罪によって殺されますが、人が借りたものを返す生活に立ち帰させるためにも殺されたのでした。「隅のかしら石」となったのです。この通りのことが、これを話された三日後に、イエス様のうえに起こりました。
世の中の人は神様が世界の所有者だということも、私たちの生活は神様から貸し与えられたものであることも、キリストの十字架のことも認めません。私たちはここから自分の人生を整えます。
 

 2020年11月15日 「破れの中に立たれる主」     
 聖書:マルコによる福音書 11章27節−33 節    説教  
一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、 言った。「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか。」

イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたがたに言おう。
ヨハネの洗礼(バプテスマ)は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。

そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」
  イエス様が宮清めをなさり、ロバの子に乗ってエルサレムに入城されたことを考え合わせると、イエス様の振る舞いは激情にかられての行動でなく、メシヤとしての宣言と神殿礼拝の否定であることがわかりました。祭司長たちはまず言葉の罠にかけるため「何の権威によってこれらのことをしたのか」と問いました。するとイエス様は「ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」と逆に問われました。彼らは「天からだと答えればではなぜ従わないのかと言われるし、人からだと言えば群衆を敵に回すことになるため「わかりません」と答えました。

私たちは問題点をはっきりさせなければなりません。しばしば「分からない」「出来ない」と言いますが、本当は出来ないのでしょうか、したくないのでしょうか。
聖書は罪を指摘します。罪とは、物を盗んだり、偽証したり、勿論それらも罪には違いありませんが、それらは上辺のことです。本当はもっと深いところにあります。知っていながらそれを認めない強情、出来るのに出来ないという心のかたくなさです。本当の人の問題はこの姿勢なのです。(エレミヤ書 18:11-12、 エゼキエル書 11:19 、詩編 51:19)

強情はどれほど本人にとり返しのつかないことをさせ、周りの者を悲しませることでしょう。やっかいなことに、他人の強情はよく分かりますが自分の強情は見えないのです。そしてついには、イエス様を十字架に追いやります。しかしまた、そのかたくなさの真中に十字架が立っています。
理屈や言葉は通じません。わかっていてしているのですから。力やおどしは一時は問題の解決のようですが、力の重しが取れた後はもっと問題をこじらせます。岩のように固い心を溶かすのは言葉ではなく自分の痛みを伴う愛だけなのです。

2020年11月8日 「神を信じなさい」     
聖書:マルコによる福音書 11章20節−25 節    説教 
翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
 
  「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
また立って祈るとき、だれかに対してなにか恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」

信仰は、神様を信じることであって、それ以上でもそれ以下でもありません。聖書が語り続けているのは、神がいる、ただ存在しているというのではなく、愛をもって支配してくださっているということです。その「神を信じなさい」

それで祈ります。問題がどんなに大きくても、どんなに道が塞がれていても、神様は神様らしい仕方で必ずや御心をなし給います。祈りは念力や信念とは違います。わたしがどう祈るかではなく、神様の御心は必ず成るという神様への絶対信頼です。祈りを持つ者はなんと幸いでしょう。
                                    
私たちが生きる上では、突然の事故や病だけが問題ではありません。日常的には人間関係です。恨みと赦しの問題です。
祈りは、神様の愛の支配の中でするものですから、隣人への愛も求めます。恨むことは嫌なことで、心のなかにカビが生えたようなものです。「恨むことは人の悪を数えること」と言われます。考えても仕方がないのに繰り返し繰り返しその人がした悪を数えること、それを止めて、イエス様にその方のことを委ねられないでしょうか。                   

2020年11月1日 「用意された住まい」
 
 聖書:ヨハネによる福音書 14章1節−6節   説教 
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと(かつて)言ったであろうか。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
  作家の三浦綾子さんが生前こう言われました。「永遠の生命は絶対にあるが、絶対に死ぬということが人間の定めであり、義務であり、人には死ぬという務めがある」と。
 
イエス様は言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければあなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか」と。
 
私たちはイエス様の十字架の意味はよく知っています。私たちの罪のために死んで下さり、それによって私たちは神様に結びつけられたのです。ところが、イエス様の十字架にはもう一つ大きな意味がります。深いところでは罪の赦しとつながっていますが、イエス様の死は、父なる神様のもとに私たちの住まいを用意して下さるためでもあったのです。
地上では、神様を「父なる神様」と仰いで生き、地上の先きにも父のもとに住まいを用意して下ったのです。
 
このお約束が明確に自分のものとなっていますか。それは聖書が言っているだけではないかと思い、死の不安のなかに生きるのでしょうか。イエス様の約束を信じないで、私たちは一体何を信じるのでしょうか。