説教 


2020年12月27日 「主の手の中で」     
聖書:サムエル記下 16章5節−14節      説教: 
 ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男が呪いながら出て来て、兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。
シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。」
ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「なぜあの死んだ犬に主君、王を呪わせておかれるのですか。行かせてください。首を切り落としてやります。」
王は言った。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう。」ダビデは更にアビシャイと家臣の全員に言った。「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。 主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」
ダビデと一行は道を進んだ。シムイはダビデと平行して山腹を進み、呪っては石を投げ、塵を浴びせかけた。
王も同行の兵士も皆、疲れて到着し、そこで一息ついた。
  ダビデはサウルの後、2代目のイスラエルの王となり、国内を統一し、エルサレムを首都と定めて神の箱を移し、名実ともに国の基礎を固めた名将です。
サムエル記下1章−10章までは打つ手打つ手が功を奏し華やかなダビデの様子、11章以下は、ダビデ自身や家族の事件が記されています。部下の妻バトシェバを力で奪い取り、子のアムノンは異母妹タマルを力ずくで犯し、タマルの兄アブサロムはアムノンを殺害します。まるでギリシャ悲劇を見るような内容です。
アブサロムは一時王の前を逃亡しますが、赦されてエルサレムに帰還すると、王に不満のある人を見つけては甘言をもって人心を引きつけ、ついにダビデ王に反逆しました。家庭の争いが国を二分する争いになったのです。ダビデは裸足で都を落延び、アブさロムはイスラエルの全軍を率いてエルサレムに凱旋したのでした。
 
人は落ちぶれた時、その人の真価が一番よく現れると言います。失敗した時に、心から悔いて新しく生きられるか、失敗に押しつぶされて、自暴自棄になるからです。また得意なった時も、そうです。有頂天になって勝手なことをし始めるか、落ち着いて、謙遜に生きられるかです。
 
このことは、生涯をかけての信仰の決め所でもあります。成功に神様の導きを見、つらさや不幸にも神様のみ手を見ます。
本当は、成功や不幸から神様を見るのではなく、神様の手の中から現実を見るのです。上り坂も下り坂も、マサカもある私たちの生涯を見るのです。
 

2020年12月20日 「クリスマス・その確かな喜び」     
聖書:マタイによる福音書 12章18節−25節     説教:  
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
  クリスマスには「メリー・クリスマス」と挨拶します。それは生まれたイエス様におめでとうと言うのではなく、イエス様が私たちのためにお生まれ下さってよかったねと、私たちがお互いに祝いあうことです。
 
ヨセフにとってマリヤの身に起こったことは青天の霹靂でした。マリヤが身重となった。ヨセフにとっては身に覚えのないことで、何日も眠れぬ夜を過ごし、煩悶したに違いありません。これはマリヤとても同じです。
律法に従えば、公にしてその結果石打の刑になることで、ヨセフにはそれは出来ません。しかしマリヤのことを赦すこともできず、母子の行く末を案じつつお金を与えて密かに婚約を解消しようとしました。
「このように考えていると主の天使が表われて言った。『ダビデの子ヨセフよ、恐れずに妻マリヤを迎え入れなさい。マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリヤは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。…『その名はインマヌエルと唱えられる』」
ある人は、これは神様がヨセフに頼んだ言葉だと言います。縁を切ってはいけない。妻として迎え、生まれてくる子を自分の子として迎えて欲しいと。ヨセフはそれに応えたのです。それによって「イエス(神は救い)」と「インマヌエル(神は我々と共におられる)」とが結びつき、救いはなりました。
 
MOL(ミッション・オブ・レパーズ)という「ハンセン病患者の伝道団体」があります。ハンセン病を罹病した人が同じ患者に伝道することもありますが、罹病していない人にどうして自分が信仰を持ったかを証する団体です。
その方は15歳で罹患し、やっとの思いで療養所に入れたとたん危篤になり、でも耳は聞こえていたのです。お医者と看護婦さんがこの人が死んだらどうしようかと相談したそうです。二人がいなくなると、一人の女の人が耳で「松村さん、全ての人があなたを見捨てても神様はあなたを見すてませんよ」とささやき、その時命の灯が灯ったと感じ、危篤の状態を突き抜けたそうです。それでこの喜びをなんとしても皆に伝えるという証です。
これが「メリー・クリスマス」の内容です。
 

2020年12月13日 「死者に復活について」     
聖書:マルコによる福音書 12章18節−27節    説教: 
 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
 
イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」



  復活はないと主張していたサドカイ派の人々がフィクションを仕立ててイエス様に質問します。イエス様を困らせイエス様の口で復活を否定しようとしたのです。
 
「あなたたちは聖書も神の力もしらないから、そんな思い違いをしている。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(人には罪があるので、死と悲しみがあります。天国は神様が牧者となって下さいますから、家族の慰めはいらず、死がありませんから、結婚も不要なのです。黙示録21:1-4) 
 
「死者が復活することについては『柴』の箇所で神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神…』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(モーセにすればアブラハムは二千年も昔の人なので、正確には「私はアブラハムの神であった」と言うべきなのに、「アブラハムの神である」と神様は現在形であらわれています。それは神様にあっては死が克服されているからなのです)
 
イエス様は、サドカイ派の質問に答えることで復活についてお教えくださいました。ここに私たちの復活の姿と根拠があります。
現代はサドカイ派の考えのような世の中の風潮です。一切を合理的、実利的に考え、死の先を否定します。復活を否定することは死をどう考えるかの問題です。死を考えないで今をいさぎよく生きることが出来るのでしょうか。
 

2020年12月6日 「国とどう関わるか」
 
聖書:マルコによる福音書 12章13節−17節   説教:
さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
  イエス様は「皇帝に税金を納めるべきでしょうか、納めてはならないでしょうか」と問われました。「納めよ」と言えば重税にあえぎ、ローマからの独立を願っている民衆を敵に回し、「納めるな」といえばローマを敵に回すことになります。イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられます。
 
当時ユダヤはローマの支配下にありました。しかし、ユダヤはその支配を認めたくはなくても、ローマから恩恵も受けているのです。ローマの支配下で、海から海賊が、陸からは盗賊が影をひそめました。交通と治安と文化の恩恵があるのです。国から恩恵だけを受けて義務を拒否することは出来ない相談です。
ファリサイ派の人々は「納めるべきでしょうか」と問いますが、イエス様は「返しなさい」と言われます。これはどんな時代、どんな国に住んでいても、信仰を持っていてもいなくても、しなければならない人の義務なのです。
 
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」とは、政治は政治、宗教は宗教ということではありません。一体私たちが持っているものは全て神様から托されたものです。確かに皇帝が力を行使しても、それは神様から託されているものなのです(ロ−マ13章)。皇帝と神は対等の関係ではなく、上下の関係です。それを踏まえた上での政教分離です。
私たちは天地の造り主、歴史の主である神様を畏れるので(エレミヤ29章)歴史に責任ある関わり方をしてゆきます。