説教 


2020年1月26日 「主によって力づける」     
聖書:サムエル記上 30章1−20節     説教:   
三日目、ダビデとその兵がツィクラグに戻る前に、アマレク人がネゲブとツィクラグに侵入した。彼らはツィクラグを攻撃して、町に火をかけ、 そこにいた女たち、年若い者から年寄りまで、一人も殺さずに捕らえて引いて行った。 ダビデとその兵が町に戻ってみると、町は焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた。 ダビデも彼と共にいた兵士も、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。 ダビデの二人の妻、イズレエルのアヒノアムとカルメルのナバルの妻であったアビガイルも連れ去られていた。 兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。
 
ダビデは、アヒメレクの子、祭司アビアタルに命じた。「エフォドを持って来なさい。」アビアタルがダビデにエフォドを持って来ると、ダビデは主に託宣を求めた。「この略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。」という答えであった。 ダビデと彼に従う兵六百人は出立した。ベソル川に着くと、そこで落伍者が出た。 ダビデと四百人の兵は追跡を続けたが、二百人は疲れすぎていてベソル川を渡れなかったので、そこにとどまった。兵士たちは野原で一人のエジプト人を見つけ、ダビデのもとに連れて来た。パンを与えて食べさせ、水を飲ませ、更に干しいちじく一かたまりと干しぶどう二房を与えて食べさせると元気を取り戻した。彼は、三日三晩、飲まず食わずでいたからである。 ダビデが彼に、「お前は誰の配下の者で、どこから来たのか」と問うと、「わたしはエジプトからの従者で、アマレク人の奴隷になっていました。三日前に病にかかり、主人に捨てられました。 クレタ人のネゲブ、ユダに属するネゲブ、カレブのネゲブに侵入し、ツィクラグに火をかけたのは我々です。」 ダビデは尋ねた。「お前はその略奪隊のもとへわたしを案内できるか。」「あなたが、わたしを殺さない、主人に引き渡さないと神にかけて誓ってくだされば、あの略奪隊のところに御案内します。」
 
彼はダビデを案内して行った。見ると彼らはその辺り一面に広がり、ペリシテの地とユダの地から奪った戦利品がおびただしかったので、飲んだり食べたり、お祭り騒ぎをしていた。 夕暮れになるとダビデは攻撃をかけ、翌日の夕方まで続けた。らくだに乗って逃げた四百人の若者を除いて、逃れた者は一人もなかった。ダビデはアマレク人が奪って行ったものをすべて取り戻し、二人の妻も救い出した。 年若い者も年寄りも、息子も娘も、戦利品として奪われたものもすべて、ダビデは残らず取り返した。 更に、ダビデは羊と牛をことごとく奪った。一行はこの家畜の群れを引いて行きながら、言った。「これはダビデの戦利品だ。」  
  サウル王に命を狙われているダビデは王の手を逃れ続けます。ダビデにはサウル王への恨みも殺意もないことを明らかにしますが、サウル王も和解をほのめかしますが時がたつとまたダビデへの殺害を謀ります。この繰り返しにもう一度ガトのペリシテの王アキシュを頼りました。王は快くダビデを引き受け、ツィクラグに住まわせ、サウル王もダビデを襲うことはありませんでした。
 
ところが一番恐れていたイスラエルとペリシテとの全面戦争が起こりました。ダビデもペリシテ軍の一員として従軍しますが、ペリシテ人はダビデの裏切りを恐れてそれを許しません。彼は喜々としてツィクラグに帰りましたが、待っていたのはダビデたちの留守を襲ったアマレク人による放火と略奪と家族全てが奴隷としてひき行かれたことでした。ダビデの部下も家族・財産のすべてを失い、ペリシテに従軍することを決めたダビデに殺意を抱きました。絶対絶命で生涯最大のピンチです。ダビデは「主によって力づけたのです」そのピンチをこう切り抜けました。
 
そんな中で神様は、人を立て、王の子ヨナタンを立てて人を力づけてくださいます。
また「人知を越える神の平和が私たちを守り、神自らが力づけて」(フィリピ4:7)くださいます。
この御言葉に立つとき、活ける神様の心が私たちの心臓に届くのです。

苦しみのあることが不幸ではありません。人は生きている限り悲しみ、苦しみます。その時自分を力づけてくれる方をもたないことが本当の不幸なのです。
 

2020年1月19日 「祈り―みごとな交渉」      
聖書:マルコによる福音書 7章24節−30節    説教:  
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
  律法学者たちは洗わない手で食事をする弟子たちを見つけ、イエス様にそれを問いただしますが、人を汚すものは何かを語ってイエス様の教えをはっきりさせます。ユダヤ教団とのいらぬ争いを避けるため、また弟子たちに信仰を教えるため、外国のティルスに来ました。シリヤ・フェニキヤの女の信仰は弟子たちに信仰を教えるよい手本でした。
病気の娘を持つ女がイエス様のもとに来て、娘の癒しを願いでました。しかしイエス様はその願いを拒否なさいます。これは信仰の大切な一面です。
女は熱心に願いましたし、熱心がなければ事がならないことも事実です。しかし熱心の裏側には、自分中心や身勝手がしばしば隠されています。身勝手を助長することが信仰ではありませんし、救いとは私の願いがそのまま叶えられることでもありません。神様の御旨がなり、御旨だけがなることなのです。

女は初め、弟子達がうっとうしく思うほど執拗にイエス様に願いました。しかしイエス様から「子供たち(イスラエルの民)のパン(救い)を取って、子犬(異邦人)にやってはいけない」とのお言葉を聞くと、そこに神様のユダヤ人への確かな愛を知りました。特定の人を愛さないでいて、世の中の皆を愛するなどと言うことはないのです。それが判った女は、「お言葉通りです。まずイスラエルを愛することはわかりました。でもその愛はイスラエルだけでなく周りの者にも及ぶことは否定なさらないでしょう」と願ったのでした。必死な願いからイエス様の愛に身を委ねたユーモアにも満ちた願いになりました。

人の甘えや我がままには決して動かされない厳しい意志と、同時に真剣な求めに耳を傾け、時には御心を変えて下さったとしか思えない仕方で心砕いて下さる神様です。女はこの神様に願ったのです。祈りとはこの神様の愛に身をゆだねることなのです。
 

2020年1月12日 「人を汚すもの」     
聖書:マルコによる福音書 7章1節−23節    説教: 
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 聞く耳のある者は聞きなさい。†
イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
  聖書は義なる神様の前で生きるため罪を問題にし、聖なる神様の前で生きるため汚れを問います。
この当時人々は、衛生の意味ではなく手を洗い、器を清めました。汚れを自分の中に入れないためです。それをしなかった弟子達が責められることがきっかけで、人を本当に汚すものは何かをイエス様はお教え下さいました。これは当時では考えられない、画期的なことでした。
問題は体ではなく、心です。汚れと罪は必ずしも一つではありませんが深いところでは繋がっています。体に入るものが人を汚すのではなく、心の中から出て来る思いと言葉と行いとが人を汚すのです。あなた自身が汚れているのだと指摘されたのです。(ローマ1章、ガラテヤ5章)          
 
不幸にして別れなければならなかった人が、相手の非だけを言いつのっている間は立直れないと言います。たしかに相手が悪いに違いありません。しかし自分にも非のあることに気が付かない人は、立直れないのです。今の社会は犯人をしたてあげ、責任を転嫁する社会です。しかし罪は外にあるのではなく、私の内に在るのです。
 
自分の汚れ(罪)に気付かないことは不幸なことです。罪(問題)を知らなければ自分の新しい出発も、再生もないからです。自分の中のけがれ(罪)を知ることはつらい事ですが、それが幸いなことなのです。しかしもっと幸いなのは、そんな私たちがイエス様によって赦され、受け入れられていることを知ることです。

 

2020年1月5日 「恐れるな」
 
聖書:マルコによる福音書 6章45節−56節   説教:
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。 そして、群衆と別れると、祈るために山へ行かれた。 夕方になった頃、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。 イエスは、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜明け頃、湖の上を歩いて弟子たちのところへ行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声を上げた。 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐに彼らと話をし、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。弟子たちは心の中で非常に驚いた。 パンのことを悟らず、心がかたくなになっていたからである。

こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトの地に着いて舟をつないだ。
一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 その地方全体を走り回り、病人を床に載せて、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ運び始めた。 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人を広場に寝かせ、せめて衣の裾にでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆、癒やされた。
   ガリラヤ湖でイエス様が奇跡を行うのは二度目で、4章ではイエス様が舟の中で寝てしまい、突然の嵐に「黙れ、静まれ」と言われて嵐を鎮められたこと。今日の箇所は嵐で漕ぎ悩む弟子たちに近づき「わたしだ、恐れるな」と言われて舟に乗り込まれると嵐がおさまったという記事です。

真暗な中で、逆風に漕ぎ悩み、こともあろうにイエス様を見て恐怖の叫びをあげる弟子達。イエス様は近付いて、「わたしだ、恐れるな」と言われます。人は絶えず恐れと不安にかられます。それはどこから来るのでしょうか。「パンのことを理解せず心が鈍くなっていたからでした」
恐れの源は「失うこと」への恐れです。私たちはいろいろ持っています。持っているので、失うのではないかと恐れます。財と地位をもち、失敗したり健康を損ねて、将来を失うのではないかと恐れます。それらの集計は生命です。所有はすべて生命につながっています。最後は命を奪われるのではないかと恐れます。私たちの生命は、なんと不安に満ちていることでしょう。

しかし、一体、人に時を与え、人を本当に支えているのは誰なのでしょうか。それは神様で、不安はその神様をのけものにしてそれらを持とうとするところから来ます。
人は恐れをなくすことも、所有を捨てることも出来ません。「わたしだ、恐れるな」と言われ本当に私を支えてくださるイエス様がいるのです。イエス様の十字架の贖いと赦しのゆえに、神様を信頼し、神様から託されたものとしてそれらを持ち、委ねられていることに私たちは気付かされるのです。
恐れは「先のパンのこと(本当に生命を支えてくださる方が共にいること)を悟らなかったから」であり、イエス様が舟に乗り込まれると(私たちがイエス様を受け入れると、イエス様にゆだねること)嵐は止んだのでした。