説教 


2021年1月31日 「アブサロム、わが子アブサロムよ」     
 聖書:   サムエル記下 18章28節−19章1節   説教:  
アヒマアツは「王に平和」と叫び、地にひれ伏して礼をし、言った。「あなたの神、主はほめたたえられますように。主は主君、王に手を上げる者どもを引き渡してくださいました。」
王が、「若者アブサロムは無事か」と尋ねると、アヒマアツは答えた。「ヨアブが、王様の僕とこの僕とを遣わそうとしたとき、大騒ぎが起こっているのを見ましたが、何も知りません。」 王が、「脇に寄って、立っていなさい」と命じたので、アヒマアツは脇に寄り、そこに立った。
そこへクシュ人が到着した。彼は言った。「主君、王よ、良い知らせをお聞きください。主は、今日あなたに逆らって立った者どもの手からあなたを救ってくださいました。」
王はクシュ人に、「若者アブサロムは無事か」と尋ねた。クシュ人は答えた。「主君、王の敵、あなたに危害を与えようと逆らって立った者はことごとく、あの若者のようになりますように。」
 
ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」

  ダビデが家庭内の問題を適切に処理しなかったことへの不満に加えて、アブサロム自身の持つ野心からダビデに反逆して、国を二分する内乱となりました。初戦ではアブサロムが有利でしたが、ダビデは態勢を整えて、ついに反乱軍を抑え込みます。内乱は収まりましたが自慢のアブサロムの死の前にダビデは泣き崩れるのでした。それはダビデのために闘った兵士を白けさせる程でした。
 
アブサロムは見事な髪をもっており、それを誇っていました。昼なお暗いうっそうとした森の中の戦いで、彼の髪が木の枝に掛かり、宙づりになって彼の命を奪ったのです。長所が短所となり、自分が他の人より長じていることが、返って災いとなることがあるのです。
ダビデはアブサロムを溺愛していました。溺愛が悪いのではありません。無条件で受入れ支えてくれる愛も、時には必要です。ただしその愛は清められなければなりません。
子が自立した時、神様を畏れるというフィルターを通して自分の長所をとらえられないことが問題なのです。
世に子供のために泣く親は数えきれません。子供が神様への畏れがわかっているかどうか、神様の前で自己規制の効いた子供となっているどうか、子供への最大の愛は神様への畏れを教えることなのです。 
 
「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、」と主は言われる。(エレミヤ書9:22−23)

 

2021年1月24日 「終わりを前にして」     
聖書:マルコによる福音書 13章1節−23節      説教:   
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
 
イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
 
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。 屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。 主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。 だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」
  世に終末思想がないわけではありません。人口爆発と食料危機、抑制を欠いた欲望による資源の枯渇と環境破壊、核兵器の使用をにおわせる戦争の危機、いつも破滅と隣りあわせの地球です。社会科学者や自然科学者が指摘する物理的な終焉としての終末論です。
 
聖書の終末は違います。終わりですが完成です。神様はかつて天と地を創造され、現在これを支配し、やがて完成されます。
一体私たちの人生やこの世界は、終末・キリストの再臨抜きには考えられません。「歴史は審判」と言われ、時が悪を裁くのは事実です。併し裁かれなかった事件も何と多くあることでしょう。
 終末・キリストの再臨は完成の時なのですから、悪が裁かれ義がうち建てられます。あの涙、この苦しみの意味が明らかにされます。終末は終末だけをとらえるのではありません。創造とセットで、創造の完成としての終末を押さえておく必要があります。
 
信仰の究極の姿は、終末をいつも心の片隅におき、再臨の主にまみえる備えをすることです。
信仰に品性の錬磨、人格の陶冶、円滑な人間関係の手立て、心の平安など、数々の利益がないわけではありません。しかし、もし信仰がそれだけだとしたら。それは二階に届かない梯子と同じで、その信仰は中心を外しています。隠れた祭壇を築き、主の前に生きること。再臨の主に備えることこそが中心なのです。
 

2021年1月17日 「神の前と人の前」     
聖書:マルコによる福音書 12章38節−44節     説教:  
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
 
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」




 
  「この貧しいやもめは、…誰よりもたくさん入れた(献金した)。…乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を捧げるのを見たイエス様の言葉です。
やもめには破れや痛みもありました。最小の銅貨レプトン二枚がその日の生活費の全てだと言いますから、そのみじめさが分かります。夫が亡くなった時の心細さや将来への不安、みじめさとやるせなさ、そんな彼女を支え導く神様を彼女は見ていたのです。そして委ねました。 
献金は献身のしるしと言われます。いくばくかのお金を捧げて神様の恵みを買い取ることでも、会費でもありません。生活費全部とは、その生活の全部です。献金に託してやもめはつらさを含むその生活の全てを神様に委ねたのでした。
 
律法学者はこの神様を見ていません。彼らは神様ではなく、自分を見ている人の目をいつも意識していたのです。長い衣をまとって歩き(町の人はそれですぐに気づき挨拶します)、これ見よがしの長い祈りをし、頼ってくる寡婦への世話も自分をよく見せるための行動でした。そういう生き方はまさかも時、死を前にして、何の助けにもならないのです。
 
私はこの箇所(マタイ23章)は私へのイエス様の言葉として顔を伏してしまいます。
イエス様がここで問題にしているのは彼ら(私)の不実の指摘以上に、人を本当に支える方を見よと言うことです。
 

2021年1月10日 「キリストとは誰か」
   
聖書:マルコによる福音書 12章35節−37節    説教:  
 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
  一連のイエス様への言葉尻をとらえる質問が終わると、今度はイエス様が問われました。
「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と。
 
メシアがダビデの子であることは律法学者も民衆も疑ってもみない常識となっていました。旧約聖書では何度も予言され、イエス様は「アブラハムに子、ダビデの子、イエス・キリスト」と紹介されています。当時ユダヤはローマの圧制下にありました。人々は苦しみ、そこから救い出してくれるメシアを渇望していました。私たちを圧迫している問題を根本から解決してくれるメシアは必ず到来します。
 
しかしそういうメシアだけではありません。ロバの子に乗ってエルサレムに入城し、上から力をもって人を治めるのではなく下から愛をもって人々を支えるメシヤ。人々の罪のために十字架にかかり私たちを神様に結びつけ、私たちがどこにいてもどんな時でも神様を味方として歩める者にしてくださいました。
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:31-32)
「神はどんな時どんな処でも我を見捨てたまわじ」と信じて歩んでゆけるのです。
ダビデが「わが主」と求めたのはこの方なのです。
 

2021年1月3日 「律法と福音」
 
聖書:マルコによる福音書 12章28節−34節    説教: 
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
  宮清めをなさった後のファリサイ派、サドカイ派の人々との議論の続きです。この当時、律法学者やラビたちの間にはどの掟が第1のものかという議論がありました。十戒はそれを615にも細分化しました、例えば「安息日を聖とせよ」という戒めを具体的にはどういうことかと微に入り細をうがって細かに決めていたのです。そうなるともう中心がわからなくなり、イエス様がどの程度律法を知っているかを試す意味で、日頃の疑問をぶつけたのでした。
 
第一の掟は何ですかとの問いに、主イエスは答えられました。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と。特別なことではありません。ユダヤ人なら誰でも知っている掟です。自分の欲望や、都合を優先するのではなく、第一とすべきものを第一とする。神を、真実神とすることです。  
 更に言われました。「隣人を自分のように愛しなさい」と。自分に何か不足が生じた時、座して思うだけでなく、行動を起こします。愛は思いや観念でなく、具体的であれと言うのです。
 神を愛し、隣人を愛する。これは一つのことなのです。神を愛することを隣人を愛することで確認し、また、隣人を愛することは神を愛することなしには出来ないことです。
 ここに人としての生きる基本があり、これが出来ないところに混乱と混沌があります。これは聖書全巻を貫く主張です。
 
 律法は言います。「神を愛し、人を愛せよ」と。然りです。しかし、それが分っていても私たちには出来ません。そんな私たちのため、人が神の敵であった時、神が人を愛し、隣人を愛せない私たちのために神が隣人となって私たちを愛して下さったのです。これが福音です。