説教 


 2021年2月28日 「出会いの中で」     
 聖書:サムエル記下 19章32節−40節   説教:  
 ギルアド人バルジライはヨルダン川で王を見送るためロゲリムから下り、王と一緒にヨルダン川まで来た。バルジライは非常に年を取り、八十歳になっていた。彼は大層裕福で、マハナイム滞在中の王の暮らしを支えた。
王はバルジライに言った。「私と一緒に渡って行こう。エルサレムの私のもとで、今度は私があなたの面倒を見よう。」
バルジライは王に言った。「王のお供をしてエルサレムに上りましても、私はあと何年生きられましょう。私はもう八十歳になります。善悪の判断もおぼつきません。何を食べても何を飲んでも僕には味がよく分からず、男女の歌い手の声さえもよく聞こえません。どうしてこの上、王様の重荷になれましょうか。王様と一緒に、僕がヨルダン川を渡って行くことはありません。王様がこれほどまでに私を気遣ってくださる必要はないのです。どうか、僕が帰って行くのをお許しください。父と母の墓のある私の町で死にたいのです。ここに、あなたの僕キムハムがおります。これに王様のお供をさせますから、あなたの良いと思うようにお使いください。」
王は言った。「キムハムには、私と共に来てもらおう。あなたが良いと思うように、キムハムを使おう。また、あなたの望みはすべてかなえることとしよう。」民は全員ヨルダン川を渡り、王も渡った。王はバルジライに口づけして彼を祝福した。バルジライは自分の町に帰って行った。
  ダビデ王は自分にも原因があるのですが、最愛の息子アブサロムに反乱を起こされ国を二分する戦いとなりやっとそれを平定してエルサレムに帰還しました。ダビデがエルサレムを逃亡するときもそうですが、帰還するときも人々は様々な態度をとります。その時人の本質が見えます。
 
ダビデは軍の長ヨアブを排し、反乱軍に走ったアマサを軍の長に指名しました。ダビデにすれば
自分の何もかもを知るヨアブは頼もしくもありますが目の上のこぶでした。彼を廃しアマサを任命することで二分した国論は統一されると思い、一見うまくいきました。しかしことはダビデの思惑どおりには運びません。シェバが反乱を起こしアマサは撃たれました。人はよかれと思い策を弄しますが、罪を繕うためには決して動いて名ならないのです。動けば傷口を広げます。罪を犯したときは神様のみ手に委ねる以外にないのです。
 
ダビデの苦しい戦いの最中、バルジバイには非常にお世話になりました。ダビデは彼に何とか報いたいと思いますが、強いることはしません。バルジバイは身の程を心得ており、自分のしたことを誇りません。自分の年齢、置かれている位置もわきまえて、謙遜と礼儀正しさをもって対します。
現実を恐れることもなく、思い上がることもなく、希望は持ちますが、自分に都合のいい希望的な観測はしません。貧しさは貧しさとして、老年は老年として現実をみる。死さえも安心して語ります。悪あがきもしませんし焦りもしません。
 
これは信仰抜きには考えられません。自分を越えるもっと大きな方によって自分が受けいれられている。自分を愛し、支え、導き、今日をあらしめる主、この方の眼差しの中で人はその姿勢が整えられます。そして私にもその眼差しが注ばれているのです。
 

2021年2月21日 「愛は浪費する」       
聖書:マルコによる福音書 14章1節−11節     説教:  
さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
 
イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
 
十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
 
  過ぎ越祭の二日前、祭司長たちはイエス様を殺す相談をし。弟子のユダがその手引きをすることになりました。
その女は、壷を割って、純粋で非常に高価なナルドの香料全部をイエス様に注ぎました。それを見た人は「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン(300日分の日当の額)以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに」と、声を上げます。普通なら一・二滴たらせばよかったのですから当然です。
しかし、イエス様はその女の行為を、イエス様がすることを指し示すこととして、大変喜ばれました。愛は計算を度外視し、無駄としか思えないことをするのです。女はイエス様にそれをしますし、イエス様が私たちにして下さったこともそのことなのです。
 
イエス様は私たちのために命を捧げて下さいました。何が無駄といってイエス様の十字架ほど無駄と思えることがあるでしょうか。私たちにそれほどの価値があり、私たちはそれに応えることが出来るのでしょうか。
 
聖書の信仰は、私が神様のために何をするかではなく、神様が私のために必死になって働いてくださっていることを知ることです。
私のため、愛の浪費をして下さった方がいることを知っていますか。私がかけがえのない愛をもって取り扱われていること、私の尊さがしっかり腹に入っていますか。これが信仰の原点なのですが。
 

2021年2月14日 「目を覚ましていなさい」      
聖書:マルコによる福音書 13章28節−37節    説教: 
 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
 
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
  一体この世や人生は、その全てが白日のもとにさらされるキリストの再臨抜きに説明できるのでしょうか。昨日も今日も、正直な人が売られ、弱い者が踏みにじられ、強い者、厚かましい者が闊歩しています。「歴史は審判である」と言われています。確かに、時は人の化けの皮を剥がし、真実を明らかにします。
しかし、それも部分的な真理であって、あの涙、この苦しみの全てが解明し尽くされるものではありません。そのために社会正義が広く行なわれるように行動する必要があります。ところが、その声すら踏みにじられますし、すでに葬られた人をどう考えたらよいのでしょうか。
 
私に始めがあって終わりがあるように、この世にも始めがあって終わりがあります。その終わりは、物理的な終焉以上に、創造の完成としての終わりです。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん」この告白にこそ、私たちの希望、倫理活動、殉教的信仰の源泉があります。
 
私たちは「人の子」としてのイエス様が既に来てくださり、私たちのために救いの道を開き、神様と結びつけ、世の終りまで神様が共にいてくださる幸いを知っています。しかし「人の子」として再び来たりて一切を決着させ完成してくださることも知っています。
 
いちじくの枝が柔らかくなり葉が出だすと夏が近づいたこと知るように、小さな変化にキリストの再臨の兆しを見てとりなさいと主は言われます。世の人は、神様も、キリストの再臨も審判も無視し、歯牙にもかけません。かまいません。私たちはこの主をいつも心の片隅において地上での生活を整えてゆきます。
目を覚まして生きるとは、この「既に来てくださった主」と、「やがて来てくださる主を」見据えて生きることです。
 

2021年2月7日 「今から終わりを、終わりから今を」     
聖書:マルコによる福音書 13章24節−31節   説教:
「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
 
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

  小黙示録と言われるマルコ福音書13章はこの世の終り、神様によるこの世の完成を記しています。その前兆として戦争、地震、飢饉、信仰者への迫害、にせメシヤや預言者が出現します。神に敵対する勢力が圧倒的になったその瞬間、大逆転が起こり、神様が勝利されます。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗ってくるのを人々は見る」(ダニエル7章)のです。
 
初代教会の人々は、明日にでも起こると思われていたこの終末信仰に生きていました。ところがその再臨がなかなか来ないのです。そこで気付かされました。キリストはまだ来ていないけれど、しかしすでに来ている。「人の子」として誕生し、私たちと共にあゆみ、私たちを神様に結びつけてくださいました。
クリスマスの前4週間を「アドベント」として私たちは守ります。アドベントとは「来臨」です。クリスマスはキリストの来臨である誕生です。そしてそれは、もう一度来たり給う(再臨)を待ち望むときです。この「すでに」と「まだ」の中に生きるのが私たちの信仰です。
 
今教会は受洗者の減少、教勢の停滞、信仰者の高齢化が問題になっています。信仰を得ても約2年ないし3年で信仰から距離をおきだすとも言われます。様々な理由があるでしょうが、その一つに「終末信仰」(やがて神の前の立つ)の欠落があるのではないかと私は思っています。
人の子としてのイエス様が共にいてくださる幸いな今の生き方と、やがて私も主の前に立つという厳粛な事実、この二つの中で今を整えます。