説教 


2021年3月28日 「一人、神の前で祈る」    
聖書:マルコによる福音書  14章32節−42節      説教:  
 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「私が祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく苦しみ悩み始め、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
少し先に進んで地にひれ伏し、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」
それから、戻って御覧になると、弟子たちが眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」

さらに、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。

イエスは三度目に戻って来て言われた。「まだ眠っているのか。休んでいるのか。もうよかろう。時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た。」

  イエス様のご生涯には三つの大きな祈りがありました。イエス様はそこここで祈られますが、生涯の節目ふしめでも祈られました。

第一は公生涯の初めの祈りで、聖書には祈りの形では記されていませんが、荒野の誘惑です。いよいよ神の国のために働くに当たってどのようなことが神様の与える救いなのか、荒野で神様に求めたのでした。神様は、これは救いではないと三つの答えを否定の形で示されました。
公生涯の途中、弟子たちの信仰告白を受けた後、高い山に登られお姿が変わられました。山上の変貌です。生涯の折り返し点で、これまでの歩みを振り返り、これからの歩みを整えられたのです。
最後で最大の祈りがゲツセマネの祈りです。これから受けるであろう神様の呪いの十字架を覚え、苦しみ悶え、地面にひれ伏して祈りました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」
人からも神様からも呪われて捨てられる目前の十字架刑を前に必死に神様の助けを祈りました。神様は必ず祈りを聞いてくださいます(テサロニケU5:17)。しかし、もしそれだけならその信仰は潔さのない煩悩の応援団の祈りなのです。
「しかし、わたしが願うことではなく御心に適うことが行なわれますように」 自分の願望の実現だけでなく、神様の御心が自分を通して行なわれることを祈る。自分の願いとこの祈りは相反する祈りですが、この二つが無ければ信仰者の祈りではありません。

 私たちは苦しみの中で祈り、痛みの中で求め、誘惑の中で整えられる。私たちも生涯の節目ふしめで祈るとともに、一日に一度、御前に立ちたいのです。

 

2021年3月21日 「つまずきを包む愛」      
聖書:マルコによる福音書  14章22節−31節     説教:  
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
 
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
 
するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。 
  イエス様は過越しの食事の時、イエス様が私たちのために何をしてくださったかをいつも覚えていられるように聖餐を制定されました。そのあと祈るためにオリブ山のゲッセマネ(ぶどうしぼり)に向いました。
イエス様を取り巻く状況は逼迫しており、弟子のユダはイエス様を裏切って祭司長のところに走りました。道々弟子たちに語りました。「非常事態なので、頑張れ」ではなく、「あなた方は皆私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるから。しかし私は…ガリラヤで待つ」と。はじめから弟子は裏切ると決めてかかったようなイエス様のお言葉です。ここに信仰の非常に大切な一面があります。
  
勿論弟子たちはこぞってそれを否定しますが、イエス様はペトロに照準を合わせ、具体的な裏切りの描写までします。そして、その通りのことがペトロや弟子たちの上に起こりました。
裏切らないに越したことはありませんし、裏切っていいのでは決してありません。しかし、イエス様への信仰は、一度自分の誠実さと決別しなければならないのです。
信仰は自信ではありません。自分の中にある確かさや、生来の意志の強さでもありません。たとい私がイエス様を裏切ってしまっても、イエス様は私を決して捨てず、私を包み込んで下さっている。ここに立つのです。 自分の失敗が信仰の終りではないのです。破れを知らされてそれを包み込んで下さっているイエス様の愛。自分が神様のために何をしたかではなく、神様が自分のために何をして下さったか、いつもここに立ち続けるのです。
 
「悲しみを通らない喜びはやがて悲しみに終わる。しかし悲しみを通った喜びは再び悲しみに変わることはない。病気までの健康でなく、病みぬいた健康を求めよう。失敗までの成功ではなく、失敗を克服した成功を求めよう。このためにキリストは来て下さったのだから。」
                                 (深津文雄)
 

2021年3月14日 「最後までの愛」     
聖書:マルコによる福音書  14章10節−21節    説教: 
十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
 
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
 
夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
 
  12弟子の一人ユダはイエス様を裏切り、銀貨30枚(当時の奴隷の値段)でイエス様を祭司長たちに引き渡すことにしました。イエス様の選んだ12弟子のユダのしたことは今でも問い続けられる謎です。
 
ユダは利に走ったのでしょうか(ヨハネ17章)、計算高くこのままではイエス様の巻き添えを食うと思ったのでしょうか、イエス様の奮起を促すためにあえて裏切ったのでしょうか。いずれにしてもイエス様を裏切ったのです。善であれ悪であれ、ひとつの行動だけが孤立してあるのではありません。必ず結果があるのです。人は、そういう広がりの結果を未来に背負って、裏切り、嘘をつき、愛し、行動します。
判断し、決断し、実行するのは私です。神様の選びやお心を、非人格的な運命や、変えることの出来ない宿命のように考えてはなりません。神様の選びを私も選びとっていくのです。自分の選びとったことが繰り込まれて、神様の業は進みます。人は反逆しながら繰り込まれていくか、御心にそって神様の業に与かっていくかの、いずれかです。
 
イエス様はユダが裏切ることがわかった後も、足を洗い、同じ鉢から食事をし、警告し、その心をひるがえそうとされました。「生まれなかった方が良かった」というほどのとり返しのつかなくなる行動を知り、居ても立ってもいられなかったのです。
人は判断し決断するときしばしば誤るのです。問題は、失敗があるかどうかではなく、自分をとりもどさせる小さな声に聞けるかどうかです。

 

2021年3月7日 「キリストの業を指し示す主の晩餐」
 
聖書:マルコによる福音書  14章12節−26節   説教: 
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人に付いて行きなさい。そして、その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする宿屋はどこか」と言っています。』すると、席のきちんと整った二階の広間を見せてくれるから、そこに私たちのために用意をしなさい。」
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスの言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者だ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与えられた。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。
  過越祭の第1日(過越祭は二日間守り、除酵祭は第二日目から1週間守ります)イエス様は、なんとしても弟子たちと共に過越の食事を願われました。
パンを裂き、杯をさしだして言われます。「これはわたしの体」「これは多くの人のために流すわたしの契約の血」と。 
その生涯と、すぐ後につけられる十字架の意味を、イエス様は聖餐の中に込めて弟子たちに示し、イエス様が再び来たり給う日までそれを守ることを命じられました。これは主の記念です。記念は他人から見れば何の価値もありませんが、当人にとってはかけがえのない思い出と喜び、誇りと未来へ生きる希望を与えるものでイエス様はそれを定めてくださいました。
 
神様がこの世を支配していることは悪が裁かれることで明らかになります。確かに神の義は、悪しき人を罰することで明らかになります。また、罪のない者が罪ある者のために傷つくことで人は赦され、神の義が表わされます。これが新しい契約で、十字架によってなりました。私たちはイエス様の身代わりの苦しみによって神様の赦しに生き、つらくはあってもこの生涯を神様を味方として歩めるのです。 
 
口先だけで人を愛するのではなく、本当に肉を裂き血を流して私たちを愛して下さった。忘れやすい私たちが、いつもこれを覚えて生きることが出来るために、イエス様は聖餐を定めてくださいました。